境征参加 | ナノ


現在より少しばかり遡ること、半刻ほど前。


川中島の西側に、むせ返るような血の匂いが、風に乗って届いた。

少年は鼻を擦ると、その風の方角に目を向ける。
火薬の匂いはしない。これで自分たちの勝利がまた確信づいた。少年は無邪気に笑う。

彼の手には、巨大な弓が握られてる。身の丈以上はあるそれを、彼は軽々と振り回して見せた。

少年の名前は森蘭丸。まだ幼い織田の小姓だが、その弓の実力は信長直々に認められていた。

蘭丸は、隣で突っ立っている男を横目でちらりを見た。

傍らの男は、実に奇妙な格好をしていた。下は袴であるのに、上半身は露出している。
真白の髪を結わえもせず、はらはらと風に遊ばれている。長い髪で、彼の表情は伺えない。その手にはしっかりと、彼の得意とする鎌が握られていた。

自分から声をかけるのは乗り気ではないが、そろそろ移動を開始しなくてはならない。


「おい、みつひで」

「……」

「おいってば」

「……」

「返事しろよみつひで! 失礼だぞ!」


幾度呼びかけても返事はおろか、まったく反応が返ってこない。眉間に皺を寄せながら、蘭丸は男に近寄る。そして手に持っている巨大な弓を振りかぶると、そのまま男の脳天めがけて振り下ろした。鈍い音がする。

蘭丸自身、あまり力は入れていないとはいえ、弓は鉄で出来ている。軽い、なんてことはないはずである。

打ち所が良くてたんこぶ、悪くてそのまま永遠に目覚めない、ということにもなりかねないだろう。
普通の人間ならば。

そして男、明智光秀はそうではなかったのだった。


「……うふふ」


俯いたまま、光秀は笑う。その声に、彼を心配そうに見ていた兵士たちは即座に距離を置いた。
自分たちの主のことは自分たちがよく分かっている。彼らがこの男の下で生き延びてこられたのはひとえに、危機察知能力が優れていたからであるのだ。

そして部下が下す判断によると、この笑声はあまり、機嫌がいいとはいえない。


「うふふ。私としたことが、お昼寝をしてしまったようで」


ぐるん、と効果音がつきそうなほどに勢いよく、俯いていた上半身を起き上がらせた。その拍子に白髪が四方八方に乱れる。そんなことお構いなしに、光秀は笑みを崩さない。均整の歪んだ笑顔。

幼さゆえか、はたまたわざとなのか。蘭丸は光秀の不機嫌ぶりに気がつかない。頬に空気を溜めて、もっともらしく腕を組んだ。


「のぶながさまは、何で蘭丸とお前を一緒にしたんだよ……」

「お子様の蘭丸には、少々難しい理由から、でしょうねぇ」

「……なんだって?」


光秀の言葉に、蘭丸の部下たちは恐れおののいた。
幼くもれっきとした自分たちの上司であるこの少年は、無邪気であると同時に非常に短気なのである。

しかも、仲が悪いと自他ともに認める相手に、侮辱まがいのことを言われては我慢ならないだろうことは明白であった。

光秀と蘭丸は、お互いの部下が距離を取っていることにも気づかず、無言で睨み合い、手にしている得物を構えた。

今にも一戦が繰り広げられようとしている雰囲気の中、光秀は息を吐くと、蘭丸から視線を外した。


「……面倒です」


欠伸をかみ殺すこともしない光秀に、蘭丸は面食らった。


「お、おいみつひで! なんだよ!」

「面倒なのでお相手は今度、ということで」

「面倒!? どういうことだ」

「だって眠いんです」

「ね、眠いって……!」


わなわな、と肩を震わせる上司に、部下たちは互いに顔を見合わせると意を決したように近づいた。


「蘭丸様、そろそろ……」

「うるさいっ」


怒気を隠そうともしない蘭丸に、声をかけた部下は短い悲鳴を上げた。

それに構おうともせず、蘭丸は弓に矢をつがえた。蘭丸の持つ弓の大きさに合わせて作られた、専用の矢である。鏃の大きさ、矢の長さともに規格外の大きさで、殺傷能力は普通の弓で放った矢とは天と地の差もある。

蘭丸は、つがえた矢の先を光秀に向けた。ちょうど頭の真ん中に狙いを定める。

化け物じみた矢を至近距離で向けられて、恐れないものは少ない。

しかし光秀は、それをうるさそうに見ただけだった。


「蘭丸、おやめなさい」

「うるさい!」

「あなた、ここに何をしに来たのです?」

「っ!」


光秀のその言葉に、蘭丸は我に返った。しかし、弓に矢はつがえたままだ。

その様子に、また一つ光秀は溜息を吐いた。


「どちらかが欠けてしまえば、今回の任務は全う出来ないでしょう」

「ぐ、」

「いくらご寵愛を受けているからとはいえ、さしもの蘭丸も懲罰を受けずにいられるでしょうか」

「……分かってる!」


粘つくような笑みを浮かべる光秀の顔を射抜くように睨んでから、蘭丸はようやく弓から矢を外した。
乱暴な手つきで矢を矢筒に収めると、無言で足を動かし始めた。それに、遠くて取り巻いていた部下たちが慌ててその後を追う。

光秀もまた、その後を追うようにゆっくり歩き始めた。




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