境征参加 | ナノ
言い知れない緊張感が、この場所を包んでいた。
伊達軍一行は、ただ黙々と目的地へ進行している。
表立って行軍していない伊達軍は、慎重に先へ進んでいく。
川中島の中心へ向かうにつれて政宗の口数が減った。
それに合わせて名前も口を閉じて、ただ前へと足を動かしていた。
無言の進軍は重苦しく、政宗の言葉のお陰で忘れかけていた緊張と僅かな後悔が、渦になって頭の中をぐるぐる回っている。
かぎなれない臭いと、拭い去れない恐怖、そして緊張感が胃を締め付ける。
(……吐きそ)
しかし、ここで吐いてしまうわけには行かない。
素人の名前にだって分かるこの緊張感の中で、誰かが堰を切ってしまうと崩れるものがある。
我慢するしかない。名前はそう決意して胃の不快感に気付かないふりをした。
大きく深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。
自分に言い聞かせるように、恩人たちの顔を思い起こす。
(信玄様はあの腕力と筋肉だ、そう簡単に怪我なんてしてこないよ)
筋骨たくましい壮年の恩人を思い浮かべると、僅かに緊張が和らいだ気がした。
(幸村も、体、丈夫だし)
赤い衣に身を包んだ、猪突猛進気味なあの若者。
しかし若年といってもその技量・素質は計り知れないだろう。
(そして、佐助)
三人の中で一番危険な場所にいるであろう彼を、名前は思い浮かべる。
彼はいつもの、あのひょうひょうとした表情を浮かべて戦場に立っているのだろうか。
(……ま、佐助の場合何だかんだいって一番生存率高そう)
佐助自身に言えば「当然でしょ。だって俺様だしー?」とさらりとこんな反応が返ってきそうだ。
そう考えてふっと頬のあたりを緩ませる。
そんな名前を、小十郎が目ざとく横目で見ていた。
「戦場でにやにやするなんざ百年早ぇぜ」
「な……に、にやにやなんか」
「よほど余裕があると見える」
「……なさすぎて笑ってるんですよ」
「分かってる。冗談だ」
至極小さな声量で、からかうような口ぶりの小十郎はしかし、不意に視線を鋭くさせた。
視線のあまりの鋭利さに名前は驚いて声を上げそうになったが、それを見越した小十郎はすぐさま名前の口元に手をやると、彼女の耳元に口を寄せた。
「声を出すな」
「……!?」
「じっとしてな。ちょっとした出迎えだ」
出迎え、という言葉の割には、小十郎の顔つきはあまりに剣呑だ。
しかも彼だけでなく、先を歩いていた政宗も立ち止まり、腰の刀に手をやったと思ったら抜刀した。
次いで小十郎やその他の部下たちも腰元から刀を抜く。
白刃のきらめきを間近で見た名前は卒倒しそうになった。
(抜刀したってことは……敵……!?)
臨戦態勢に入った彼らは殺気立っている。
その気に当てられて一瞬意識が遠のきそうになったが、小十郎の声で我に返った。
「名前。よく聞け」
耳朶に心地よい低い声で、小十郎は囁く。
「俺が手を離したら、この場に伏せろ。頭を庇って伏せて、誰かが起こしに来るまで動くな」
「……!」
「……心配するな。すぐに終わる」
名前の恐怖を感じ取って、小十郎は優しく微笑んだ。
そしてすぐに表情を鋭くさせると、名前の口から手を離す。
「伏せろ」
その言葉が耳に入るよりも前に、名前は地面に伏せた。
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