境征参加 | ナノ
今は夜中ということもあり、話は中座された。
続きは翌日、ということになった。
「早速部屋を手配しよう。女中連中はもう寝ておるからのう……佐助、頼んでもよいか? 西の離れがあいとるから」
信玄の言葉に佐助は首をすくめた。
「旦那といい大将といい、俺様の上司はなんでこうも忍使いが荒いのかね」
「それほどまでにお主が優秀、ということだ」
「お世辞は結構。……じゃ、付いてきて」
佐助は飄々と言い切ってから名前に声をかけて部屋を出た。
部屋を出る際彼女は信玄に一礼して、慌てて佐助の後を追う。
きゅいきゅい、と廊下の板が鳴る。これがいわゆるウグイス張りの廊下だろうか。
感慨深かったが、夜にしては少し音が大きい気がする。慎重に歩いているつもりなのにどうしても音が鳴ってしまう。
人を起こしてしまわないだろうか、と心配しているうちに、あてがわれた部屋に到着した。
母屋の方から突き出した長い廊下を渡ると、離れがあった。
結構な広さだ。離れだが、自分がこんなに大きなところを借りても良いのだろうかという妙な不安が胸に広がる。
もの珍しそうに部屋を見回していると、佐助が色々と準備をしているのが目に入った。
それにしても実に手際がいい。
一瞬女中かと思える動きだ。迷彩服の女中は少し嫌だが。
「鏡はここ。櫛はこの引き出しね。硯とか筆とかはこの机の上にあるから。後着替えように着物とかも置いてある。ちなみにここね。厠はこの廊下を真っ直ぐ行って右。湯殿は左に曲がってから突き当たり右。憶えた? 迷ったら周りの人に聞いてね」
「はぁ」
なんと言うか、忍者とはこんなにも所帯じみていただろうか。
女中というか、これはもう母親だな。心の中で思った。
「じゃ、俺様はこの辺で。ゆっくり休んでちょーだいね」
「は、はい」
そして廊下を歩き去ろうとした佐助の背中に、慌てて名前は声をかけた。
「あの!」
「……何か用?」
「あ、ありがとう、ございます」
お世話して、いただいて。
御礼の言葉に佐助は振り返った。その表情は少し驚いているように見えた。
彼は何か言おうとして一度口を開いたが、結局何も言わずにすぐに閉じた。
そうして背中を向けて歩き出す。
襖に手をかけたところで、佐助は低い声でうなるように言った。
「……俺様、まだ疑ってるから」
そう言うと彼は出て行った。先ほどは一切鳴らなかったのに、ウグイス張りの廊下がきゅいきゅいとうるさい。
佐助の姿を見送るべく名前も廊下に出た。彼の姿が夜の闇にまぎれると、名前も部屋の中へと戻った。
最後の言葉が胸に突き刺さっている。疑われるのは誰だって寂しい。
だが、彼にしたら当然だろう。
(人一倍警戒心強そうだし)
どうしたものか、と考えてみたものの、極度の疲労で瞼が酷く重い。
取り敢えず今夜は寝よう、と彼女は服もそのままにして布団に入り込んだ。
「……何、あれ」
佐助は少し混乱していた。まさか礼を言われるとは。
笑おうとして、微妙に笑えていないあの顔。
でも精一杯笑おうとしていた顔。
(……調子狂うなぁ)
橙の髪をぼりぼりとかきながら、佐助は闇に消えていった。
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