両想いのかわいい子 | ナノ

∇ 両想いのかわいい子


 暗く、静かな空間に水の音が落ちる様は夜の海にも似ていた。粘膜の触れあう音は官能的で、降谷を不安定にさせるばかりだ。落ち着かないにもかかわらず心地のよい、なんとも形容しがたい不思議な感覚だった。
 溺れると表すのは、ややもすれば的を射ている。呼吸をするのが疎かになるだけならまだいい、思考をそっくり奪われてしまうのだ。こころが酔っている。それに揺り動かされるともされる心臓は、とくりとくりと、急くことなくうっとりと波打っていた。ひとはまさしくこの状態を「心酔」と呼ぶのだが、そのひと言でまとめられるほど、降谷の語彙は豊かではなかった。
 ようやっと解いたときに零れた息は、果たしてどちらのものか。かき混ぜて乱した髪の隙間から、降谷だけが映るのを許された眸が覗いている。潤みたゆたうのに誘われ、目元の繊細な肌に親指を滑らせれば、あたりの空気に密かな笑みが紛れる。くすぐったそうに細めているのかもしれなかった。きちんと見たくて、サイドテーブルのランプに手を伸ばす。
 ベッドの全貌を暴くにも至らない40ワットのオレンジがかった光はそれでも、現を連れ戻すには充分だ。はたと明らかになった春市の表情はどこか惚けていたが、やがて口許をゆるりと綻ばせる。その変化に、自分もまるでおなじ表情をしていたのだと降谷は知る。少し決まりが悪くなって、肩に額を寄せてごまかした。背をぽんぽんとたたいて春市があやす。寝衣の薄布ごし、そこかしこに伝わる体温が照れくさい。
「どうしたの急に……」
 春市の言う通り、夜が終わる兆しもない時間に口づけに溺れるとは、いささか不可解な境遇だった。そもそも、急だったのだろうか。もうずいぶんと前から口づけていたような気さえする。これまでの経緯がさっぱり掴めない。降谷が押し黙り、たちまちあたりは疑問でいっぱいになる。今夜ばかりは春市にも、おおよその説明すらつけることができないのだった。
「僕もだよ」
「春市も?」
「うん。なんでだろうね。うまく思い出せないや……降谷くん、ほんとになんにも覚えてないの?」
 ほんとに、をやや強めにして問う視線はなにかを含んでいる。降谷のほうにも、大事ななにかを見落としている自覚が決してないわけではなかった。それでも、わからないものはわからない。行き詰まり垂れるひとひらの沈黙、じっと視線をかち合わせる。
 わからない中で唯一、明瞭としていることがある。脇腹のあたりに引っかかっている春市の手を掬い、指を絡ませた。
「足りない」
「へ?」
 戸惑いの声ごと、ふたたび飛びこんで包む。あれだけ溺れたというのに、乾いていた。不意を衝かれても難なく受け止めた春市の、そっと目蓋を伏せて露になる淡い睫毛や所作そのものがきれいで、しばらくのあいだ薄目を開けたまま過ごす。
 すきなのだと思う。いっしょに暮らしていながら、いまさら。いまさらだろうと、月並みに揺れ動くこころを把握するのも、表現するのも苦手な降谷は、どこまでも真剣だ。もうずいぶんと前からはじまっていたのは、口づけだけではない。
 青道に入る前は、内側で渦巻く感情を押し殺し、その丈を壁にぶつけていた。もっと、と渇望する果てのない欲や、なぜと問われてひとつの答えにならない脈絡のなさは、通じている部分がある。でも――、降谷は自己に反論を試みる。投げるのがすきなのと、春市がすきなのは、同じすきでもやはり違う。春市のこころは白球のように手で捕らえることはおろか、見ることさえ叶わない。だから、触れたいのか。少なくとも、こころと身体は繋がっている。
 ところが降谷の持つ伝えるための術は、悲しいほどに限られていた。こうして指を絡ませたり、抱きしめたり、唇を重ねることしか知らない。心地のよいはずの緩やかな温度がもどかしくて、物足りない。壊してしまいたい衝動は、春市にはいつだってやさしくしたい思いと食い違って、降谷を苦しくさせる。やさしく壊す。そんな器用な芸当は、常に全力で立ち向かうこの男にはむずかしいのだった。どうすることもできない、胸につかえる葛藤をこめて、頬に吸いつく。ちゅうと稚拙な音が鳴った。
「ははっ」
 とうとう春市は声にして笑った。降谷といると、いつもどこかしらがくすぐったい。行き届かない言葉も、不器用な表情や指先も。いまは、じりじりと焦れた温度がくすぐったい。
 ふたりははたちにも満たない若者だったが、生きてきた二十足らずの歳月は、ひとをひねくれさせるには充分である。ひねくれるまでいかなくとも、荒波を立てずにうまくやりすごす術を知らず識らずに身につける。たとえば、マイナスの感情をひた隠しにする、どころかにこりと微笑んでみせる。一度覚えてしまえば、造作もない。
 降谷は、最前に世に存在しはじめたかのごとく、素直だった。内側まで透けて見えるかのよう。降谷のこころは、身体とまっすぐに繋がっている。そして他人もそうだと信じて疑わない。すぐそばにいて、淀みのない自由なそれをいつまでも眺めていたい。守りたい。守られることの多かった春市にとって、守りたいとは降谷と出会ってはじめて芽生えた感情のひとつだった。
 至らない口づけをからかわれたと思っているのだろう、降谷が口を噤んで不満を訴えている。その頬に唇を寄せ、おなじ音を鳴らした。
「そうじゃないよ」
 僕だって、すきだよ。降谷くんよりずっと前から気がついていて、降谷くんが気がつくのを待っていた。
 とたんに触れた頬と反対の頬が揃って、春市の淡い桃の髪の色に染まる。ほんの些細な彩りは、すっと整った降谷の容貌を幼くさせる。燻る熱を秘めてどこまでも深く、底の知れない黒い目を正面から見据える。そこに映りこんでいる自らの笑みは、屈託がない。対峙した自分ごと称えるように、降谷の頭をよしよしと撫でる。
 恋をしあっている。
「春市」
「なに、降谷くん」
「春市……」
 相手を想う気持ちが言葉にならないのは、お互い様だ。相変わらずの稚拙さで、今度は唇同士をちゅうと触れあわせる。降谷から。春市から。まだ恋を恋とも認識できない幼子が、遊具の陰でする戯れさながら。
 しかし、恋の自覚のあるふたりは、幼いままではいられない。突如走った閃きに春市が肩を竦ませたのは、口づけが耳のふちに飛んだときだった。ぞくぞくと腰のあたりが疼き、身体全体が熱に浮かされる。はじめてではない。ついさきほどにも、こんな波に襲われかけた。あのときの恐怖はない、などと思い起こす間にも、降谷はそこを幾度となくついばむ。赤くなって震えるのがかわいくて、ただ一心に追いかけていた。
「……!」
 身に起こりつつある変化が具体的にどういうことなのか、先に悟った春市はこの上なく焦った。あまく受け止めていた口づけを捩って躱す。翻った態度に降谷が首を傾げる。
「もう寝よ」
「え、なんで」
「なんでも」
「嫌だ」
 悪いこともしていないのに、食べかけのケーキを途中で取り上げられたも同然だ。納得がいかないと言わんばかりに、駄々をこねる。意識してしまったら、もうだめだった。触れられるまでもなく、降谷の顔が近づき息が掛かるだけで、疼いて仕方がない。無邪気であったはずの戯れをそういう風に捉えていることが信じがたく、羞恥に呑み込まれる。
 暑いのか、寒いのかの判断もつかない。指先は冷たく、神経を冒す震えは寒気に似ている。かたや頭はかっかと灼け、肌はいつしか火照っている。とうてい眠りに就ける状態ではなかったが、とにかく降谷の呼吸や声、温度、すべてから逃れたかった。
 取り返しのつかなくなるまえに。
「んっ……、離してってば!」
「なんで避けるの?」
「だから、なんでも」
「怒った?」
「怒ってない」
「じゃあなんで」
「なんで、ってもう一回言ったら怒るよ。寝よう。まだ夜だよ」
「嫌だ。わかるまで寝ない」
 春市がじたばたとなりふり構わずもがく。舌の根の乾かぬうちに、とはまさにこのことではないか。何度交わしたかの問題ではない。一度でも拒まれれば、降谷はひどく傷つく。あまつさえ、やたらと長い今夜に拒まれるのは二度目だと、記憶の彼方から響いてくる。受け止めて欲しくて、背や頭をやさしく撫でて欲しくて、肩に投げつけられた右手のぶつかる痛みも厭わず、懐に潜りこんだ。
 降谷のよりもひとまわり小柄な身体に腕を回し、ぴったりと添う。
「あ……」
 腹に感じた芯のある熱は、男ならば誰しも覚えのあるものだ。いくら疎い降谷といえど、ぴんときてしまった。驚いて腕の緩んだ隙をついて、ベッドから転げるようにして春市が這いでる。
「だから離して、って言ったのに……っ」
「……」
「自分の部屋で寝る。じゃあね」
 背を向けている、細い項が茹だったみたいに赤い。居たたまれなさに縮こまっているせいか、余計にちいさく、遠くに春市がいる。いま行かせてしまったら、もう二度ととなりで眠ってくれない予感がする。これから徐々に季節は寒く移ろいでいくというのに、毎夜ひとりで過ごすのかと瞬刻よぎり、降谷は身震いした。片側にぬくもる春市の温度は、すでに一部だった。ほんとうはもっと、もっと、欲しい。
 せっかく掴みかけた糸口を放すわけにはいかない。たちどころの機転を利かせて、春市の手首を捕らえた。飛び降りたフローリングの床が、氷のように冷たい。
「嫌だ。行かないで」
「離してよ」
「嫌だ」
 春市はよく、降谷を子供扱いしたがる。確かに、あまえたがるのは平生降谷だし、ぼんやりとしていて後手に回るのも降谷である。それでも青年期の男らしい欲だって、きちんと抱えているのだ。それをこの関係にどう反映させたらよいのかわからなかっただけで、無邪気な口づけのくり返しで満足しているなどと考えているなら、大間違いだ。春市も満たされていないということは、たったいま、確かめた。
 結び目をそっと揺らす。
「見たい」
「……降谷くん、頭おかしいんじゃない?」
「春市の裸ぐらい、見たことある。高校のとき……風呂で」
「そんなのっ、それとこれじゃぜんぜん違うよ」
 口で春市に勝った経験はほぼ皆無だ。しかし、返ってくる声はいまだに上擦っていて、動揺が隠しきれていない。降谷は繋ぎ止めるための言葉を、おかしいと指摘された頭で懸命に探った。
「でも……、でも、僕と春市は付き合ってるから、……おかしくない」
「……」
「おいで」
 春市はなにも言わない。振り向かない。代わりに、後ろから抱きすくめても、逃れようとすることもなかった。許されたのだと汲み取って、ずるずるとベッドへ連れて帰る。抱えたまま、端に腰掛けた。指先で髪の下に隠れている耳を晒し、そこへの愛撫を再開する。もともと敏感だったのだろう、いったん繋がった回路は断ち切れるものではない。擦った揉んだするあいだに凪いだ温度が、みるみるうちに上がっていく。煽るためか、安らげるためか、はたまたすこしでも多く触れるためか、もう片方の手はしきりに腿を撫でさすっていた。
「ち、違っ。先にこっちだよ……」
「ごめん」
 できるだけ静かに脱がせようとしてうまくいかず、春市が自らウエストの紐の蝶々結びをほどく。しょうがないなぁ、と呆れついた息はそのときばかりはほっこりとしていた。
「うぅ」
 和らいだのも束の間。恋人が腕の中で融けてしまいそうだ。
 肩越しに覗きこんだ春市のそれはすでに、じわじわと雫を滲ませている。自分以外の昂りを目にするのは当然はじめてだったが、ことさらに言及することはなかった。敢えて挙げるならば、ああおなじだ、といったところだ。にもかかわらず、降谷は胸に滞っていた熱が生々しい鼓動とともに、いよいよ溢れだすのを感じた。たまらず根元に手を掛ければ、喉の奥で漏れた声にならない声をぐっと飲みこむ密やかな振動が背から伝わる。
「嫌じゃない……?」
 ふるふるとかぶりを振る。降谷くんは、と不安げに訊ねる春市をぐいと引き寄せる。
「僕も、」
「さわってほしい?」
 降谷のそれはすっかり昂っていた。ベッドに乗り上げて向かいあう。おたがいに手を伸ばしてすぐ、恥じらう春市は半身を降谷の肩に預けてしまった。
 高校時代、寮生活の環境では碌に自慰もできないとこぼす部員に時折出くわした。降谷に至ってはその反対で、自慰をしなくてはいけない身体を煩わしいとすら思っていたのだ。真夜中のバスルームの個室に最低限の頻度で赴き、なにを見るでも考えるでもなく適当に刺激を与え、溜まった精液を出す。処理以外の何物でもなかった。そのことを、こんなに後になって悔いる。降谷は、春市に快感を与えられているのか、気がかりでならなかった。
 耳のすぐ横の呼吸が、疲れてもいないはずなのに、危なっかしい。大丈夫、と声を掛けたくて、言葉に詰まる。いまなにかを口にしたら、意味を成さないとんでもない音が飛びだしてきそうだった。降谷に触れる春市の手が、気持ちよかった。春市に触れられている、その事実そのものが気持ちよいのかもしれない。触れられてこんなに気持ちがよいのははじめてで、狼狽える。
 春市の二の腕に空いている手を縋らせ、顔を窺えるだけの距離を置く。前髪に覆われた表情がいまにも泣きそうだった。常は勝気につんとしている双眸が切なくぎゅうと瞑られる様を、恐らくは実際よりもゆっくりと認めた。呼吸の合間に、あぁ、と滑り落ちた音はわななく。
 その果てる瞬間を見届けたとき、降谷もまた春市のてのひらに放っていたのだった。
「いままででいちばん、気持ちよかった」
 すこしばかり掠れた声で伝えれば、春市はぐすぐすと鼻を鳴らした。
「……もだよ」
「え?なに」
「僕も、だよ!それぐらい察してよ」
 シャワー浴びてくる。乱雑に服を拾いあげ纏うと、抱きしめる暇も口づける暇も与えずすたすたといなくなってしまった。取り残された降谷は、サイドテーブルのティッシュの箱を見つめたまま汚れた手を持て余し、しばしなにもできずにいた。

 なんだって、あんなことに。
 駆けこんだ脱衣所にて、とうの昔に部屋着に降格した古いTシャツと羞恥を潔く脱ぎ捨てた春市は、鏡に映っている自分に呆然とする。冷めることを知らない、林檎の頬のせいではない。つと近寄って目を凝らすも、首すじに残っているのは紛れもない、噛み痕だった。本のページをぱらぱらとさかさまに捲るように、記憶が一気に遡る。これは確か、尻尾を掴んだとき。
 慌ただしく、降谷の部屋へ舞い戻る。
「降谷くん!やっぱり猫っ……」
 ちょうどそのとき、窓のすぐ側でにゃあと鳴くのが聞こえた。



おわり


ふるにゃんもはやあんまり関係ないですけどね。この話は一応ここまでなんですが、このシリーズの布石にあたる降谷くんのお話をこの後書きます。2013.03.21

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