倉持のせい | ナノ

∇ 倉持のせい


 チョコがそんなに重要?
 倉持からバレンタインの話が出たときに、亮介が真っ先に抱いた感想である。世の中がそれを意識しはじめるよりもだいぶ前、1月も後半に差し掛かったばかりの出来事だった。思ってもいなかった話題に、そしてその内容に呆れ隣を見やれば、倉持はばつが悪そうに首を竦め、ダウンジャケットの襟に口許を埋める。欲しがっちゃ悪いっすか。もごもごと歯切れのよくない台詞が、曇る息と混ざりあって所在なくさ迷う。
「うん、悪い」
 にこりと柔らかな笑みを添え、ばっさりと言い放ってやる。
 女扱いするなとか、今さらそんなくだらないことに態度を冷やしているのではない。男としてでも女としてでもなく、倉持が亮介を亮介として好いているのはわかっている。
「でっでも欲しいんですよ!」
 そう、わかっているのだ。倉持だってあれでいて、人のことをきちんと見ているし、物事をきちんと考えている。高校を卒業し、ふたりを結びつける便宜がなくなった今でも、こうして並んで歩いていることの意味をわかっていないとは言わせない。わかっているからこそ、必死に食い下がられると余計に腹が立つ。バレンタインにチョコレートを貰って確かめることなど、この期に及んで残されてはいないはずだ。
 百歩譲って、わかっていてもなお飽き足らずに感じたい情があったとして、それがバレンタインでなければいけない理由はどこにもない。お互いの誕生日でも、夜をともに過ごす週末でも、それこそ取り立てるまでもない平凡な日でもいい。人の目さえなければ、チョコレートよりも余程確かな方法で伝えあう機会はいくらだってある。すきですだのなんだの常日頃からしつこく抜かしておきながら、肝心の場面になると怖じ気づいて機会を減らしているのはむしろ、倉持のほうだ。
 兎にも角にも、後ろめたさに抗ってまでチョコレートを用意し、この日にこだわるなんて馬鹿げている。というのが、亮介の言い分である。いい意味でも悪い意味でもつれない態度に慣れてしまった倉持が、その後何度も同じ相談を持ちかけてくるのを、その都度いらいらと振り払う。
「お前さ、バレンタインにトラウマでもあんの?」
「……べつにねえっすよ、なんも」
 つうか初めてですよ、欲しいなんて思うのは。低い声で付け足しつつ、ほんのりと頬を染め送ってくる恨みがましい視線を、さっと躱す。そんな顔をしてみせても、些かたりともかわいくない。
「ふーん。欲しいって思わなくてもたくさん貰ってた、みたいに聞こえるけど。小学生のときとか運動神経いいやつがもてるしね?」
 からかいを存分に含めて叩いた軽口にまんまと引っかかった倉持は、もててねえっすよ、と声を荒げて焦った。過去にもてていようがいまいが、お前はもう俺のものだけど。くすりと零した空気の孕んだ不穏な思考は、チョコレートに易々と込められる代物ではない。それを吸っても気がつかない倉持が悪いのだ。

 まだ起きて間もない頃、携帯が震えた。それは案の定倉持からのメールで、案の定今日この後会いませんか、問うている。来てもなんにもおもしろいことないよ、と普段通りにあしらおうと返ってくるのは、大学まで迎えに行ってもいいですか、と逸るあまりに段階をひとつすっ飛ばした更なる問いだ。亮介はそれすら安易に肯定し、冷蔵庫の中身を思い出す。大したものは入っていないが、チャーハンぐらいは拵えられそうだった。窓の外には透ける寒空、今日はすごぶる機嫌がいい。
 それから手早く身支度を整え、アパートを出る。二限の授業がはじまるまで、まだいくぶんか余裕がある。外で朝食を摂ってから学校へ向かうのも、たまには悪くない。
 駅近くのベーカリーには、買ったパンを店内で食べられるイートインのスペースが設けられている。トレイとトングを手に店内をざっと物色し、くるみのパンを掴もうとしたとき、そのとなりの商品がふと目に留まった。
 チョコレートデニッシュ。表面にアーモンドの散る四角くシンプルにカットされたパイ生地の端からは、溶けだしたチョコレートが覗いている。果たしてチョコレートとは、この数週間で聞き飽きた単語だった。生まれてから今日までに耳にした回数の半分は、倉持の口から発せられたのではないかと感じるほど、顔を合わせる度にチョコレートチョコレートと言われつづけてきたのだ。
 それ以上言うならもう会わない、と半ば本気で告げ、チョコレート攻撃が止んで数日、よくよく考えれば今日が本番である。今朝のメールの様子だと諦めたのか、それとも。
(ま、俺には関係ないけど)
 淀みない所作でくるみのパンをトレイに乗せ、レジで豆乳ラテをオーダーする。
 二人掛けのテーブルの奥の椅子に腰掛け、申し訳に参考書を開く。焼きたての札がついていたパンはほんのりとあたたかい。ぼんやりと文字を追いつつ何口かかじったのち、カップを傾け、はぁとため息をつく。
 しつこいあいつのいつぞやの笑顔が、スクリーン代わりの紙面に文字を遮るかのように投影されていて、鬱陶しいことこの上ない。残像の記憶を手繰って辿り着いたのは、去年のクリスマスだ。シャンパンならぬジンジャエールの泡の向こうではじけていた。あるいは翌日、残り物のケーキを頬張り綻んでいた。恋人同士がともに過ごす類いのイベントに乗じたがるのは、いつだって倉持だ。来月になればまた、記念日の計画をあれやこれやと寄越してくるのだろう。そう勘づいている時点で、亮介も大概毒されている。
 すっかり温くなったラテを呷り、席を立つ。店を出る前に、例のデニッシュをひとつ購入する。さすがのバレンタインでも、この程度では勘ぐられることはない。
 亮介にも、思い当たる節がてんでないわけではなかった。倉持が直向きな好意をひけらかせばひけらかすほど、どういうわけか亮介の表現はひねくれ余所を向いてしまう。意思というよりは、生まれ持った性質だ。何度挑まれようが崩れなかった頑固な考えが、ひょっとした拍子に様変わりするのもまた、生まれ持った性質なのかもしれなかった。
 たまに飴のひと粒ぐらいは貰えなければ、恋人のしがいもないだろう。目を見開いて感激に息を詰まらせる倉持の額を指で弾くところまでもが容易に浮かぶ。

 しかし、予想は裏切られる。
 カフェテリアで落ち合った倉持の挙動がおかしいと思った矢先のこと。さて帰ろうと立ち上がった倉持の無造作に閉じられたバックパックのジッパーの隙間から、丁寧に包装された箱の一部が見え隠れしているのに気づいた亮介は、まさしく裏切られた気分だった。この日にその箱とくれば、中身は透けているも同然である。倉持が自分以外の人間からのそれを受け取るとは微塵も思っていなかっただけに、衝撃は決して小さくはない。
 高を括っていたのだろうか、そしてこれは当てつけだというのか。亮介のこころをまず包んだのは、怒りだった。チョコがそんなに重要?などと宣ったあの時の思考と、大して重要でないはずのそれにすっかり動揺している状況との間に生じた矛盾を自覚し、怒りに焦りが加わる。
「亮さん、今日たのしみっすね。毎週見てるドラマ、先週犯人わかんないまんま終わっちゃったから」
「そうだっけ」
「そうですよ!俺と亮さんで意見わかれたから、犯人当てたほうがその……アレって話してたじゃないですか。ここじゃ言えねえっすけど」
「覚えてない」
「んなっ。まさか自信ないからばっくれようってんじゃないですよねー?」
「さあね」
「……」
 思えば倉持は、大学に入ってからの新しい交友関係についての話をあまりしない。今夜は大学の仲間と飲んでましたやら、バイトの連中と帰りにラーメン食いましたやら、大雑把な話はメールで聞かずとも知らせてくるが、個人個人を把握するまでには至らない。それは亮介にも言えることでもあったし、ふたりで過ごせる時間は限られているから、恋人として当然の配慮といえばそこまでである。
 たった数日前、情けなさをかなぐり捨てた強さで確と縋りつき、あんな声色で名前を呼んでいたのだ、そんなことがあるはずがない。そんなことがあるはずないのなら、なぜ受け取ったのだろうか。やはり、当てつけか。思考は堂々巡りをするばかりである。あまつさえ、バレンタインに誂えたいかにもな風体をした箱と、バレンタインをこれっぽっちもにおわせないプラスチック袋の落差に惨めな気分さえ味わう羽目に陥る。
 明白な原因が背中に張りついているとはつゆ知らず、ちらちらと顔色を窺う倉持が憎い。
 帰れと言っても聞かない倉持を最後の最後で締め出しそこねた亮介は、ドアの隙間から差し込んだ、射抜く視線に刺されて自由を奪われる。時にしてみればほんの数秒の間はされど、形勢を逆転するには充分である。逃げ場を失い、悔し紛れに睨み返せば、倉持の表情にいっそうの力が籠もり、寄った双眸が僅か潤んだ。
 野球に対する熱心な姿勢とそれ相応の実力のためか、先輩という立場を得た後の亮介は多くの尊敬を集めた。追ってくる者は常にいたが、こんな風に真っ向からぶつかってくる者はそうそういなかった。だから。
「嘘つき」
 剥がれ落ちた文句のひとつはあまりに幼く、亮介はもうどうにでもなれと、鞄に潜ませていたプラスチックを倉持めがけてぶつける。それの正体を暴いた表情が緩んだ。予想とは違えど、渦巻いている感情は似たものであるとすぐにわかる。瞬間、今までのものとは違う風合いの嫌な予感が降って湧く。
「それ、亮さんのです。もちろん俺から。俺、誰からももらってないっすよ」
「……」
「んでもってこれは、亮さんから俺に、ですよね」
 それ、とはあの箱に間違いない。
 洒落たチョコレートと倉持は簡単に結びつくものではないが、諦めの悪さや亮介の前ではやたらと恰好つけたがる点を考慮すれば、あり得ない話でもなかった。動転のあまり、この可能性を見落としていたらしい。してやられた。怒りや焦りが溶けだすのと引きかえにじわじわと滲むのは、鮮やかな悔しさばかりである。
 柔らかく押し付けては離れ、食んでは包む繊細な口づけの波は、眼前の男にはあまりにも不釣り合いだ。
(倉持のせい。倉持のせい。倉持のせい)
 胸中でくり返す呪詛はやがて、愛おしい言葉へと変貌する。



おわり

亮さんバージョン。ホワイトデーの代わりです。それにしても亮さん…。申し訳ない。03.08.13

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