ミステリー・オン・ホリディ | ナノ

∇ ミステリー・オン・ホリディ


 シャワーで眠気を落とした降谷は、幾分かさっぱりとした心地でリビングダイニングへつづくドアを開いた。朝食のにおいが鼻をくすぐり、正直な腹の虫がぐるぐると鳴く。休みである今日は、まれの和食のようだった。においに誘われるままにキッチンへと向かい、コンロの上の鍋を覗く。小松菜と油揚げの味噌汁が湯気を立てている。となりのフライパンには蓋が被せてあり中身は見えていないが、目玉焼きに違いない。冷蔵庫の前にいる春市が、漬け物の入った器を片手に降谷のほうを振り向く。
「おはよ、降谷くん」
「おはよう……」
 朝の挨拶ならさっき、布団に包まりながら一度交わした。それでもシャワーを浴びた後にキッチンで改めておはようと言い合うのが、いつものパターンだった。部屋の明るさや温度から、目に見えない雰囲気の密度まで、言い直したくなるほどなにもかもが違うのだ。起きてすぐの布団の中がホットチョコレートなら、ここはレモンスカッシュだ。清涼感たっぷりの笑顔が眩しくて、降谷は立ち尽くす。眠いのとはべつの意味でぼんやりとする。
「ごはんもう炊けてるよ」
「うん」
 その言葉に我に返る。茶碗にごはんをよそうのは、降谷の仕事だった。引き出しから取り出したしゃもじで、炊きたてのそれをざっくりとかき混ぜる。暮らしはじめてすぐにそうするように教えられ、忘れると今日のごはんはふっくらしていないと怒られる。今ではさすがに忘れることはない。両手に茶碗を持って向かうテーブルにはすでに、味噌汁の椀や目玉焼きの皿、箸がセットされている。定位置に茶碗を置くタイミングで、春市がグラスにミネラルウォーターを注ぐ。
 いつもの椅子に並んで腰掛け、手を合わせる。
「いただきます」
「……ます」
 さっそく目玉焼きに醤油を垂らし箸で切り込みを入れれば、黄身がとろんと蕩ける。降谷がごはんを正しくよそえるようになる頃には、目玉焼きの焼き加減は一定の半熟に揃っていた。かちかちの黄身に恥ずかしそうにする表情を思い出しつつ、むぐむぐと頬張っていると、つゆも知らず呑気に漬け物に箸を伸ばす春市と目が合う。
「今日どうする?」
 暇なのはわかっていたが、まだとくに計画を立ててはいない。ここ最近の休日を遡ってみるも、気の利いた過ごし方ひとつ浮かびあがってこない。このままここでだらだらするのも、電車を乗り継いでどこか知らない遠くまで出掛けるのも、大して変わらないように感じる。なぜだろうと咀嚼しながら考え、あることに気がつく。頭上の電球にぴんと明かりが灯ったのが見えたのだろう、春市は静かに降谷の口が空くのを待っている。
 ぐい、とはんぶん一気に飲んだミネラルウォーターは、きれいな味がした。
「なんでもいい」
 具体的な案を期待していた春市が、ぽかんとする。
「春市がいっしょなら……」
 そしてじわじわと赤くなった。
 赤くなるのはよくあることだが、いつどんなときに赤くなるのか、降谷はいまだにうまく理解できていない。ヒットやホームランを打って赤くなるのも、目玉焼きが半熟にならなくて赤くなるのも今の台詞に赤くなるのも、わかるようでわからないが、かわいいからまあいいかと思う。
「それじゃ、答えになってないよ」
「でもほんとになんでも」
「ああもう、うるさいな」
「……(がーん)」
 さらにわからないのは、赤くなった後に怒られるときがあるということだった。こちらのほうはどうにかしなければいけない、と今度は味噌汁の椀に口をつける。となりから、自覚がなんとかかんとか、と聞こえたような気がした。その作っている人曰く、ほんだし入れてるだけだよ、らしいがおいしくてほっとする。本人の評価がどうであれ、春市が作るものはいつでもおいしい。それを今伝えたら、機嫌はよくなるだろうか、それとも悪くなるだろうか。ありがとう、と微笑む姿も、今そんな話してないから、と冷たくあしらう姿もどちらも想像できる。降谷の頭の中は、見た目よりもずっと忙しい。
 思考は巡れど結論は出ず、黙々と食事を進める。あらかた片付いたところで、いささか決まりの悪そうな声で春市が提案する。
「じゃあ、映画借りてきて見るのは?」
 降谷はうんうんと二度頷き、グラスを空にした。

 駅までの道のりの商店街に、24時間営業のレンタルショップがある。いざ外に出てみれば、朝にはすっきりと晴れていたはずの空は今にも落ちてきそうなほど低く、どんよりと曇っている。閉じかけた玄関のドアを再度開き、念のためのビニール傘を収納から一本出しながら、やっぱり映画にしてよかったねと春市が言う。こんな日は、いくつもの伏線の錯交するミステリー映画がいい。ストーリーに迷い込んで犯人もわからないまま、春市を抱きかかえてうとうとと微睡む。
 そこまで考えてはっとする。左手から傘を下げ、反対の手に握った鍵をドアに差し込み施錠する春市の斜め上から見た後ろ姿と、湿気を帯びたぬるい風が張りつく怠惰に強い既視感を覚える。
「どうかした?」
「……べつに」
 しかし降谷は、デジャヴという単語を知らなかった。はたまたほんとうに、そっくりの休日があったのかもしれない。
 降りだす前に用事を済ませようと皆が考えているせいか、商店街はいつもよりも混んでいる。大きく膨らんだエコバッグを両手にぶらさげ歩くふたりの母親世代のおばさん、のんびりとしたペースで日課の散歩をたのしむおじいさん、一冊の漫画を覗き込みけらけらと笑いながら進む前方不注意の小学生の群れ、そして隙間を縫うように走る自転車、騒々しい中にもどこか趣がある。
「あれ、見て」
「?」
 春市の指の差す方向を見やる。人々の脚をぎゅうぎゅうと押しのけて向かってくる、一匹の犬だった。それも、明らかにこちらを見ている。降谷たちが気づいたとわかるとますます興奮してリードを引っぱり、飼い主を急かす。
 遠くからアピールをしていた犬は近づくなり、春市の膝にじゃれついた。茶の長い毛をもふもふと蓄えた、中型犬である。黒くつやつやとした目を輝かせ、狐並みのボリュームのある尻尾をちぎれんばかりに振って、好意を示している。
「すいません、なんかうちの犬が……」
 躓くようにして追いついた飼い主は同世代、もしくはひとつかふたつ下かもしれない、という風貌の女の子だった。大きな瞳が犬によく似ている。少しおっちょこちょいそうなところが、野球部時代の同学年のマネージャーを彷彿させる。犬の世界には初対面の緊張や礼儀といった概念は存在しないのかもしれないが、人間同士はそうもいかない。すっかり恐縮している様子の彼女に、春市はふわりと笑いかけた。
「気にしないでください。犬、すきなので」
「よかった」
 彼女の表情が和らぐ。間にいる犬が割り込み、構ってほしいと鼻を鳴らして主張する。
「撫でてもだいじょうぶですか?」
「もちろん」
 春市が腰を屈めて頭を撫でれば、ぴんとした耳を後ろに倒し、目を細める。尻尾の速度を緩め、満足気にはふ、と息をつく。
「すごく人懐っこいですね」
「ふだんはこんなにリード引っぱったりしない子なんですけど……」
「え、そうなんですか」
 ふたりと一匹の会話に口を挟むこともせず、ぼうっと突っ立っていた降谷はふと視線を感じ、あたりをきょろきょろと見回した。行き交う人々は皆忙しく、道端で起こった小さな談笑に向いている注意などどこにもない。おかしいなと俯く。
「……!」
 例の犬が、しあわせに綻んだ表情で降谷をじいと見ている。むっとして睨むのにも怯まず、自慢でもするかのようにぺろりと舌を出す。春市のシャツの裾を軽く引っぱってみるも、彼女とのやり取りに気を遣っているせいで気づかない。てのひらは相変わらず、犬の頭を優しく撫でている。
 ついに耐えかねライバル心むき出しのオーラを燃やす。春市がびくり、と肩を揺らし降谷を見上げた。
「あ、もう行こっか?」
「……うん」
 ありがとうございました、いえこちらこそ。適当な挨拶を交わし別れる。数メートル歩きちらりと振り返ると、あの犬もちょうど尻尾越しに振り返るところだった。最後にぱちりともう一度視線をぶつけ、前を向く。
「人懐っこくてかわいかったね」
「かわいくない」
「あれ?降谷くん動物すきかと思ってたのに」
「べつに」
「ふーん?まあいいけど。そうだ、映画どういうの借りよっか?」
「ミステリー……」
「僕がそういうの借りてくるといっつも降谷くん寝るじゃん」
「……」
「いいけど」
 ぶっきらぼうな返事のせいでうまく広がらない会話を気にするでもなく、春市は傘をぶらぶらさせている。歩調に合わせて弾む髪は、冴えない天気や降谷のこころのもやもやを吸い取り、ほんのわずかにくすんで見える。

 店に入ってすぐの新作の棚を眺めるが、興味をそそるものは見当たらない。旧作のコーナーをそれぞれにうろうろし、気になるDVDのパッケージを持ってきては読み比べ、をくり返しようやく「ユージュアル・サスペクツ」に決める。それからコンビニにすばやく寄って、鑑賞中に手持ち無沙汰にならないよう菓子とジュースを抜かりなく買い求める。ぽつり、と頬に落ちた雫に、春市が手をかざし小首を傾げたときには、ふたりの暮らすアパートはもうすぐそこに迫っていた。
 雨雲の立ちこめる窓からは顕著な光は差し込まず、天井の明かりを落とすだけで、リビングは映画を見るにはお誂え向きの空間となる。プレーヤーにディスクをセットし、ローテーブルには電子レンジではじけたばかりのポップコーンとチョコレートレーズン、グラスにたっぷりと注いだジンジャエールをセットする。胡座の真ん中に春市を迎え入れ、背後から抱きすくめるのは、テレビや映画を見るときの定番の体勢である。
 あとはまさにリモコンの再生ボタンを押すだけ、という絶妙なタイミングで春市の携帯が震えた。
「……兄貴からだ」
 出てもいい?と言外に訊ねる春市を、無言で肯定する。
 それから30分ほど、春市はたのしそうに話し込んでいる。
「違う違う、帰るのは再来週の土曜日だよ」
『その日もう予定入れちゃったから。金曜にしなよ』
「メールで言ったじゃん、土曜だって」
『4年の俺のが忙しいんだよ』
「わかった。じゃあ金曜ね。バイトは代わりの人探してみるよ」
『見つかんなかったらひとつ言うことなんでも聞くってことで』
「なにそれ!?」
『はい、決定ー。金曜ちゃんと帰ってくればいいだけのことだろ』
「そうだけどさぁ」
 ただでさえ静かな部屋、これだけすぐ近くにいるのだ、亮介の言っていることは耳を大きくするまでもなく降谷にまで筒抜けている。たわいもない内容である。しかし、自分抜きで進む会話が延々とつづけば、次第に面白くなくなってくる。たわいのない話だからこそ、なおさら面白くない。春市の腹に回している腕にぎゅうと力を込める。
「ごめん、兄貴。もう映画見るから切るね」
『映画館?』
「ううん。借りてきて部屋で見るとこ」
『降谷と?』
「う、うん。そうだよ」
『ふーん。……帰ってくるときいっしょに連れてきな。兄貴命令』
「帰ってくればいいだけ、ってさっき言ったじゃんっ」
『じゃあね』
「ちょっと」
『映画見るんだろ』
「っ、後でまた電話するから。じゃあね!」
 もう兄貴ってばなに言っちゃってるんだろう、と零しつつ、通話終了のアイコンに触れる。亮介が話したことはそっくりそのまま降谷へ伝わっている。そう思うと恥ずかしくて口走らずにはいられなかったのだ。ところが、肝心の降谷はなにも言わない。ふたりっきり、さあこれから映画を見よう、というときになって30分も放ってしまったのだから、春市にあまい降谷もさすがに少しぐらいは腹を立てているのかもしれない。
 きついままの腕の中でごそごそと向き直る。
「ごめんね。映画見るところだったのに。怒ってる?」
「…………ずるい」
「へ?」
「小湊先輩ばっかり春市と電話してずるい。メールもずるい」
「電話とかメールとかしなくたって、いっしょに住んでるじゃん」
「それにさっき、散歩してる犬に会ったときだって、すごいたのしそうにしてた」
 吹き出した不満が、別の件に飛び火する。言葉にしたことで勢いの増した炎が、ふだんよりも鋭い双眸の奥で燃えている。レンタルショップへ行く道中に偶然会った女の子と話していた件はまだ記憶に新しい。あたかも世間話をする以上の企みを持っていたかのように指摘されたのは、春市にとってまったくの心外だった。そこだけは訂正しなければ、ときっぱりと否定する。
「そんなつもりぜんぜんなかったから」
「僕が途中で呼んだのにも気がつかなかったくせに」
「それはっ……」
「ずっと撫でてばっかり」
「へ?」
「だから犬だよ」
「い、犬……?」
「いつまでたっても撫で撫で……ずるい」
 大真面目に顔を顰めずるいとくり返す降谷に、春市のこころはとうとう陥落を喫する。待たせてしまったことに腹を立てていると思いきや、もっと電話やメールをしたいと言う。初対面の女の子と会話を弾ませていたことに腹を立てていると思いきや、自分も撫でてほしいと言う。その見かけにもよらないあまえたがりの性分がなによりもずるいと、春市は悔しさすら感じる。降谷の一連の言動は、誰にも知られたくない。こうしていつも、独占欲を見せつけられるのと同時に、それを凌ぐほどの独占欲を募らせる羽目に陥れられるのだ。
 きれいに伸びた首すじに両手を持っていき、襟足の髪をくしゃりと掴む。
「だから自覚してよって言ってるのにさ」
「……?」
 そのままてのひらを滑らせ、ぐるぐるとかき回す。
「これでいい?」
「犬はもっと長く撫でてた」
「はいはい」
 ひじを曲げて距離を縮める。触れた唇はつまみ食いのポップコーンの塩味がする。
「こういうことはっ……、降谷くんだけだよ」
 何度か触れては離れ、お互いの肩に顎を乗せたときに聞こえた、満足気なため息に春市は破顔する。ラグに転がっているリモコンを拾いあげ再生ボタンを押したのは、それからもうしばらく後のことである。


 
おわり

降谷くんに夢を抱きすぎている。そして最後の亮さんとの会話は、同棲シリーズ発展の布石です。2013.02.19

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