夕暮れに潜む指先の温度 | ナノ

∇ 夕暮れに潜む指先の温度


 アパートのドアに鍵を掛ける降谷の横顔を春市はちらりと盗み見る。初対面のときに受けた涼しげな印象は、内面を知れば知るほどぬるくなり、挙げ句には溶けてしまったからもはや跡形もない。しかしこうして外見だけに注意を向ければやはり整っていて、欠点のひとつすらない美しさは冷たい。なぜだか拗ねてしまいたい心地に包まれ、もたついているのを放って先に歩き出す。べつに慌てるでもない降谷は、細い外階段の半ばで背後に追いつき、アスファルトに着地するのと同時に春市のとなりにすっと現れた。傾く夕陽がふたりの影を細く長く伸ばす。
 クリーニング屋の角を曲がって、車がびゅうびゅう走る大通りにでる。馴染みつつあるややうるさい街並みは、歩調の速さで流れていく。途中ですれ違った散歩中の豆柴と降谷が真剣に見つめあう光景は、春市のくすくす笑いを誘った。それから歩きつづけること5分、いつものスーパーマーケットの自動のガラス扉に吸い込まれる。
「今日の夕飯どうしよっか……。わ、桃おいしそう。1パック350円だって。買ってく?」
「桃……」
「嫌だったらこっちのすいかでもいいよ」
「春市の頭に似てる」
「なにそれ?」
「上から見るとちょうどこんな感じ」
 ドッペルゲンガーや幽体離脱の類いの現象を経験しない限り、自らを見下ろすことなどできない。春市には、その言葉が果たして正しいのか判断がつかない。けなされている訳でもないのに思わず後頭部を押さえて、斜め後ろで空の買い物かごを片手に仁王立ちしている降谷を振り返る。
「結局、桃にすんのすいかにすんの?」
「……春市にする」
「そう呼ぶのは勝手だけど、食べるとき皮剥いてナイフ入れなきゃいけないんだからね」
「(がーーーん)やっぱりすいかに……」
「(降谷くんのすごいくだらない想像が伝わってきたから)却下っ」
 あまそうな4個が揃ったパックを選び、かごに入れる。青果コーナーをそのままうろうろしてみるものの、食材を眺めているだけで夕食のメニューがすんなりと決まるほど、料理にはまだ慣れていない。財布と健康のためという建前と、昼間は違う大学ですごしているぶん夜ぐらいはいっしょにすごしたいという本音のもと、なるべく自炊を心掛けている。
 野球以外のことがからきしだめな降谷は案の定料理もからきしだめで、サラダ用のレタスを千切る、たまごを溶くといった単純な作業をのぞき、食事を拵えるのは主に春市の担当である。降谷よりはましという程度だった調理スキルは、ちいさな失敗を乗り越えながら少しずつ向上していて、レパートリーもだいぶ増えた。
「なんか食べたいものあったら言ってよ」
「うーん…………あ、親子丼食べたい」
「何日か前に作ったばっかじゃん。いいの?」
「あれおいしかったから、また食べたい」
「……うん。じゃあ親子丼で」
 満足のいく出来に仕上がったときも、そうでないときも、降谷はなにも言わずにもぐもぐと食べる。それでもやはり、お気に入りのメニューが存在するらしい。思ったこととは相反する嘘やお世辞を吐く器用さを持ち合わせない降谷の素直な言葉は、春市の口角を自然に引きあげる。
 顔のはんぶんが髪で覆われているにも関わらず、照れているのが浮き彫りな横顔に、降谷は人知れず時めいた。自分以外の不届き者の視線がこちらに向いていやしないかと、あたりをぐるりと見渡す。そんなことをわずかにも気にしない春市は、味噌汁に入る予定のほうれん草をかごに追加し、たしか玉ねぎはまだあったよね、とひとり言をつぶやく。
 白いプラスチックの袋をひとつずつぶら下げふたたび外に出るころには、あたりは薄暗くなっていた。人も車も家路を急いでいるように見える。
「明日はバイト何時から?」
「1時」
「僕もそんなに早くないし、夜はゆっくりできそうだね。こないだ借りてきた映画でもみよっか」
「うん……」
 となりを歩く春市の耳にも届くぐらいの音量で、降谷の腹の虫が喚く。
「はは。帰ったらすぐに作りはじめるね……て、わっ」
 空いている降谷の右手が、おなじく空いている春市の左手をおもむろに掬いあげたせいで、びっくりした声があがる。ぎくりとするのをものともせずに飄々と、包む力は強くなる。春市の指先は降谷のそれより冷たく、ひんやりとしている。
「どうかしたの?」
「どうもしない……」
「ちょっと、手」
「うん」
「うん、じゃなくて。離してよ」
「なんで?」
「なんでってここ外だよっ。見られたらどうすんの」
「その格好だったらわかんないよ」
「はぁ!?」
 大きめのTシャツにハーフパンツ、ビーチサンダル。確かに男女を問う服装ではないし、もともと春市はどこか中性的な雰囲気をまとっている。しかし本人がその言葉に納得するはずもなく、不満たっぷりに降谷を見上げる。
 ところがそんな不満を弾いたのは、ほくほくと立ちのぼるしあわせオーラだった。表情や仕草、目に見えるものをなにひとつ変えずにこんなにもはっきりと感情表現をする人を、春市は他に知らない。いろいろな意味で規格外れの降谷でも、すきな人と手を繋いで街を歩くのはしあわせだというわりと普通の感覚を備えているらしい。飛びだしかけていた文句のひとつやふたつはいとも簡単にごまかされてしまう。
 視線をアスファルトのでこぼこに落とす。
「今度おなじことしたら怒るからね」
「……うん」
 繋いだ手はそのままに、そう念を押すのが精一杯だ。今度がいつなのか、そもそもそれがやって来るのか。春市にすらわかっていないことを、降谷がほんとうにわかっているのかは定かではない。



おわり

降谷くんは料理ができないという勝手な解釈。たまごを割ろうとして潰しちゃうぐらいのひどいレベルだとかわいい。かに玉食べたかったんだから、親子丼も食べたい、はず…。2012.07.18

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