おかえりとただいま | ナノ

∇ おかえりとただいま


 亮介から連絡が入ったのは、倉持が地下の通路を急いでいる最中だった。乗り換え案内によると、次の電車までたったの2分しかない。しかしこうも混み合っていてはせっかくの俊足の生かしようもなく、せいぜい人にぶつからないよう早足で追い越すに留まる。
 ホームにたどり着いたときにちょうどやってきた目的の電車に乗り込み、ひと仕事終えたかのようなすっきりとした気分で携帯を確認する。「ごめん」からはじまる内容にまさか今日は会えないのかと一瞬ひやりとしたが、つづいたのは予定の時間よりも帰宅が遅れるから待たせる、という倉持にしてみればなんともない些細なことだった。
(なんだ、待つのなんかどうってことねえっての)
 なんだかんだ気遣ってくれるんだよなぁ、と頬を緩ませたのも束の間、それにはさらにつづきがあった。
(先に部屋にあがってろ……?)
 こんな寒い中外にいたら怒るからな、とまでわざわざ念を押してある。
 少し前に貰った合鍵は今も自宅の鍵とともにしっかりと持ち歩いてはいるものの、実際にはまだ一度も使ったことがない。相変わらず、事前に律儀に約束をして通う日々がつづいている。ただ銀色のちいさなそれはそれなりに、キーケースを取り出すたびに照れくさい幸福感を与えてくれる効果はきちんと発揮していたのだ。持っていること自体が、亮介に心を許されている証拠であるような気がして満たされた。
 それが今日になって、本来の鍵としての役割を果たそうとしているらしい。寒いから中で待っていろ、という言葉こそ気遣い以外の何物でもなかったが、でれでれする余裕は吹っ飛んでしまった。
(いやいや、こういうときのために貰ったんだろうが)
 わかっていても、緊張する。待ちわびる最終目的地まで、あっという間に着いてしまった。いつもは再会への期待を弾ませながらくぐる改札を、むずかしい顔で通り抜ける。用もないのにコンビニに寄って雑誌をぱらぱらと捲り、お菓子を物色する。いい加減手持ち無沙汰になって去ろうとしたとき、レジの横で湯気を立てているおでんが目に留まった。表には出さないけど実は亮さん寒いの苦手なんだよなぁ、と倉持を悩ませている張本人のことを一途に思い出し、せっかくだから買っていくことにする。帰ってきたときにあたため直していっしょに食べよう。そう思い立ったら、俄然おでんの気分になる。譲れない大根だけはふた切れ注文する。
 食べ物を買ってしまった後に寄り道をすることは憚られ、それから10分足らずで亮介のアパートに到着した。一応インターホンを押してみるが、やはり反応はない。きょろきょろ辺りを見回してみても、廊下や面した通りに亮介の姿は見当たらない。倉持はぎこちない手つきで例の鍵をポケットから取り出した。
 差し込んで回せばドアはいとも簡単に開いて、もっとセキュリティは厳重なほうがいいのではないか、と見当違いなことが頭をよぎった。
「う……、お邪魔します……」
 週に何度も来ているいとしい馴染みの空間は、あるじがいないと、ただの部屋でしかなかった。いつものキッチンやリビングにはよそよそしさすら漂っていて、来るたびに覚えていた高揚感や安心感は亮介がいるからこそ――つまり倉持はほんとうに亮介に会うためだけに足しげく通っているのだ、と改めて実感する。
 内側からドアをロックするのはまるであるじを締め出しているようでおかしな気もしたが、近ごろの世の中は物騒だし、亮介も当然鍵を持って出ているからとくに問題はないはずだ、と判断して結局つまみを捻る。
 買ってきたおでんをキッチンの作業台に乗せようとして、シンクに空の皿とマグカップが置き去りにされているのに気がつく。朝食を摂ったはいいが、出掛けにばたばたしてしまって洗う時間がなかったのだろう。洗っておこうかと手を伸ばしかけ、引っ込める。
(料理するついでとかならともかく、おせっかいか?)
 洗っておせっかいなやつだと思われることはあっても、洗わなくて気が利かないやつだと思われることはさすがにないだろう、とそのままにして部屋の奥に進む。倉持が先に来るという計画外の事態にも関わらず、シンク以外の部分はきれいに片付いている。本や雑誌は収納にきちんと仕舞われ、脱ぎっぱなしのシャツやくつ下はどこにも見当たらない。きっちりと畳まれたベッドの上の掛け布団は、常にくしゃくしゃに丸まっている倉持のものとは大違いだ。
 そわそわ落ち着かない。倉持ははたと思い出したかのように、ダウンジャケットのジッパーを下ろした。テレビボードに並んでいるリモコンのひとつを取ってエアコンの電源を入れる。ふたり掛けのフロアソファの向かって右半分、くつろぐ定位置になりつつあるそこにやけに畏まって腰を下ろす。すぐとなりにあるクッションを抱えて顔を埋めてみる。亮介のにおいが鼻を掠めた。
 大きく息を吸いこめば、早く会いたい気持ちがいっぱいに広がった。


 当初のシフトよりも1時間遅れてバイトからあがり、亮介はようやくアパートにたどり着いた。自室の窓からは明かりがこぼれていて、倉持が中で待っていることが窺える。
 ドアの前まで来たところで、インターホンを鳴らすべきなのか、自分で鍵を開けるべきなのか、迷った。手間を省くために倉持を呼び出すことに対しての躊躇はまったくと言っていいほどなかったが、なぜだかそうすることが恥ずかしいように思える。逡巡したのちに、ポケットに手を突っ込んだ。
「……わ」
 呼び出してもいない倉持が玄関先でしかと待ち受けていて、亮介は思わず小さな声をあげた。
「階段あがってくる足音が聞こえてきたから、亮さんかなぁって思ったんすよ」
 テレビも付けないで待っていたらしい。そういうつもりで言ったわけではない倉持の台詞から、いらない情報を拾いあげてしまう。かわいいやつ、と緩みかけたのをさっと引き締める。ドアをロックして振り返ったときには、段差のせいでいつもよりも少し高い位置にある倉持の顔はにっかりとした笑みを乗せていた。
「おかえりなさい」
「ここ俺の家、……」
 反論が終わるよりも早く、ぎゅうと抱きしめられる。寒さの染みこんだ身体が包まれて溶かされる。あたたまった身体が寒さを吸い取ってわずかにぶるりと震えるのも構わず、離すどころかさらにぴったりとくっつくように両腕に力を込めたりするから、雰囲気に呑まれてしまう。
「……ただいま」
 亮介の持っているプラスチック袋からふんわりと立ちのぼるだしの香りに気づいて、倉持が目尻を下げたのはそれからすぐのことだった。



おわり

くらりょだとこんな些細なこともドラマですね!ふたりともおでん買ってきちゃった。2012.11.16

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