「そう」 | ナノ

∇ 「そう」


 数センチほど開いたドアの隙間からは蛍光灯の明かりこそこぼれているが、あのうるさい音は聞こえてこない。そっと中に入ると、裏返ったTシャツやソックスを直す手を止めて、春市がにこりと微笑みかける。降谷はそれに対して曖昧に頷き、向かいの洗濯機の前にかごを降ろした。
「けっこうあるね」
「3日空いたから」
「ここ数日いそがしかったもんね。練習もきつかったし……」
「べつに疲れてない」
「そんなこと聞いてないよ」
 背中越しに、軽く言葉を交わす。
 ふたりが揃ったのは、なにも偶然ではない。
 野球部員の洗濯物の量は、尋常ではない。頻繁に洗わなければ、持っている服が追いつかなくなってしまう。いそがしいスケジュールの合間を縫って、部員はランドリー室へやってくる。大所帯なうえにそれぞれが頻繁に洗濯をするため、たいていは誰かと鉢合わせになる。世間話をしながら待ち時間をすごすのが常だった。
 僕、この後洗濯するけど……。降谷が春市に向けて呟いたのは、食堂でのミーティングが終わり、部員ががやがやと散っている最中だった。沢村が大げさにはしゃぎ倉持にタイキックを食らうのを助けるでもなく眺めていた春市は、突如耳に入ってきた台詞にきょとんとして降谷を見上げた。それから視線を斜め下に落としほのかに頬を赤らめながら、じゃあ僕もしようかな、とほっこりとした声色で答える。だからなに、と聞き返されたり、ふーん、で済まされなくて、よかった。表現に乏しい降谷の目元が人知れずほころぶ。
 こころを推しはかるのが苦手な降谷は、ときどきこういう風に不器用に確かめる。そんな態度を取られるたびに、春市が身体の内側にくすぐったい不思議な感覚を覚えることなど、知る由もなかった。
 ランドリー室へ向かう足取りは軽くもなく重くもなく、まるで無重力だった。
「今日はすいてるね。もっと混んでるかと思ったのに」
「うん……」
 今ここにふたり以外の部員がいないのはただの偶然でしかないのに、そこにまで意味を見いだそうとしてしまう。ついさっき、これから洗濯すると言ったら、僕もすると返してくれた。そのときに感じた安堵と関係している、意味。
(君もそう思う……?)
 後ろを振り返る。視線に気づかない春市は、のん気にパーカーの袖を引っぱりだしている。君もそう思う?といきなり問いかけても、きっとわかってもらえない。「そう」の部分を抽象的にしか捉えられていない降谷は、なにをどこからどう説明すればいいのか皆目見当がつかなくて、途方に暮れた。このあいだの勉強不足で挑んだ物理の小テストのようだ。頭が真っ白になって、ぼうっとしてくる。同時に、どうにかして埋めなければとどうしようもなく焦る。
 春市の頭はちょうど、降谷の肩の高さぐらいのところにある。身体のつくりはすべて、降谷よりもひとまわりちいさい。これから洗濯される服も、ひとまわりちいさい。野球をしているときには意識すらしないのに、今はやけに気になる。
 絶望と焦燥と興味がいっぺんに押し寄せて、心臓の鼓動が速まる。赤信号と青信号が両方点灯していてどうしたらいいのかわからない中、腕だけがまるで切り離された意思を持ったかのごとく、浮きあがった。春市の背後から巻きつく。ななめの角度で見下ろしていた頭が顎の真下にあることに、はっとする。裏返ったままのソックスが、まっさかさまに落ちた。
 春市はあたたかくて、息をしている。
(心地がいい)
 ところがその矢先に、腕の中の身体がちいさく身じろいだ。
(もしかして、嫌がってる……?)
 ひやりとして、緩める。その隙を突いて、春市が180度向きを変える。胸元に顔を埋める寸前に垣間見えた頬はこれでもか、というほど染まっていた。そろそろと頼りなく回ってくる腕が降谷の背中を浸食する。
(嫌じゃ、ない)
(もうすこし、こうしててもいいかな)
(いいよ)
 顔を埋めたまま息をする、その部分が熱い。春市だけ埋めるのは不公平だと、降谷は淡紅色の髪に頬を重ねた。こんなにぴったりとくっついたことは未だかつてないはずなのに、これまでずっと離れていたことのほうが不自然なようにさえ感じる。
(……僕もそう思う)
 本来聞こえるべき機械音はいつまで経っても生まれず、しんと静まり返っている。安っぽい蛍光灯が瞬く。
 いつしか、ぎゅうときつく抱きしめあっていた。



おわり

降春は触れあえば()で会話できるのです。春っちは相当脱ぐのが下手みたいね。2012.11.06

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