ウイルス性の熱 | ナノ

∇ ウイルス性の熱


 倉持からメールが返ってこない。
 ポケットからおもむろに携帯を取り出し、亮介は最後のやり取りを改めて確認する。受信の日付は、2日前の金曜日を示している。
 その夜は春市と会っていた。この4月から大学に通いはじめ、同時に降谷と暮らしはじめたらしい彼と近況を報告しあうついでに、晩ごはんでもいっしょに食べようかということになったのだ。春市と降谷が住むアパートは、亮介の通う大学からだいたい30分ほどのところにある。そっちに行こうか、という申し出を断り、亮介のほうから出向く。どんな街に暮らしているのか、一度は見ておきたかった。
 駅からわりと近くのこぢんまりとしたイタリアンレストランで、前菜をのんびりとつつきながら話をする。新生活は、至って順調なようだった。1時間半の講義ってすごい長いよね。うちの大学の学食けっこうおいしいよ。そんなありがちな感想に、とてつもない時の流れを感じる。亮介のやることなすことすべてを真似てべったりと後をくっついてきていた春市が、自分で決めた道を歩きだしている。亮介とは違う大学に進むことにしたと電話で知らされたときはそうなんだぐらいにしか思わなかったのに、こんな後になって急に実感が押し寄せた。いつかはこうならなければならなかった。弟の成長がうれしい反面、自分の手から離れてしまった気がして、ほんのすこしだけさみしい。
「大学がそれなりにたのしいことはわかったけどさ、どうなの?降谷との同棲生活は?」
 からかうように訊ねれば、春市の頬はかぁぁと赤くなる。昔から変わらない一面にほっとして、浮かびかけた感傷は、さっと姿をくらませた。
「ル、ルームシェアだよ!」
「ふーん……みんなにはそう言ってるんだ。今さら俺の前でごまかさなくたっていいじゃん」
「〜〜っ」
「ま、その様子だとうまくいってるみたいだね。それどころかうまくいきすぎてる感じ?」
「もう、からかわないでよっ」
 そのとき、春市の携帯が震えた。
「あ、降谷くんだ」
「噂をすれば、ってやつだね」
「今駅にいるって」
「ここに誘えば?」
「いいの?」
「うん。そしたら春市が恥ずかしがって教えてくれない同棲生活についてもっと詳しく聞けるし」
「兄貴!」
「ははっ、冗談だよ。降谷にはしばらく会ってないからね。せっかく来てやってんだから顔ぐらい見てったっていいだろ」
 それからすぐに降谷が加わった。メインに頼んだピザとパスタを3人で分け合う。パスタをフォークに器用に巻きつけながら、亮介はななめ向かいに座る男に視線を向けた。
「降谷は元気だった?」
「はい。先輩は?」
「うん、俺も元気だよ。大学はどう?」
「たのしいです。キャンパス内にたくさん猫がいて」
「…………」
 凛と引き締まった表情で放つ、拍子抜けの言動。数か月ぶりの降谷は、やはり相変わらずだ。そこ?そこなんだ?、うん……写真見る?春市に見せようと思って撮っておいたんだ、えっ今じゃなくていいよ、食べ終わったらね。顔を付き合わせ仲睦まじく会話をする様子に、亮介は苦笑する。こっちから聞きだすまでもない。このあいだ会ったときは小湊くんと呼んでいたのに、いつの間にか春市に変わっている。そんなどうでもいいことにまで、気がついてしまった。
 卒業した他の部員が今どうしているとか、今年の青道のチームの調子がどうとか、そういった話題に突入するときりがなかった。店が混んでいないのをいいことにずいぶんと長居をする。兄弟なんだから割り勘でいいと訴える春市と折り合いをつけるためにそれぞれから500円ずつ回収し、残りを亮介が支払って外に出たころには、すっかり夜になっていた。
「兄貴、今日はありがと。家、寄ってく……?」
「それは今度にするよ。もう遅いし」
「そっか」
「定期的に連絡寄越しなよ。降谷はぼけるのもほどほどにしときなよ」
「(……?)今日はごちそうさまでした」
「じゃあな」
「うん。またすぐに会おうね!あ、あと……っ、倉持先輩によろしく!」
「!」
 もしかしたらそれまで遠慮していたのかもしれない、レストランでの会話には出てこなかった馴染みすぎた名前を急に出されて、一瞬固まる。軽く睨むと、春市はへへ、と同棲うんぬんでからかったことに対する仕返しが決まったみたいに首を傾げて笑った。となりの降谷からは、クエスチョンマークが飛んでいる。
「……余計なお世話だよ」
 そう言って、背を向ける。寒くもないのに、ジャケットのポケットに手を突っ込み肩をすくめて足を踏み出した。数歩も歩かないうちに、指先に触れている携帯がメールを受信して震える。本日2度目の、デジタル版:噂をすれば影がさす、である。

今バイトからあがったところです。腹減った〜!亮さんは晩メシなに食べましたか?
今日は春市と会って、イタリアン食べたよ。途中で降谷も来た
たのしそうっすね。今度は俺も混ぜてくださいよ
やだ
なんで!二遊間会開きましょうよ!降谷はおまけで
バーカ

 それっきり、連絡は途絶えている。理不尽にバカだと告げた後なだけに、どことなく気まずい。当たり前だが、ほんとうに倉持がバカだから4人で集まりたくないと思っているわけではない。春市に不意打ちを食らった直後で、悔しかっただけだ。それにお互いの関係を把握している上で、倉持と亮介に降谷と春市の組み合わせで集まるだなんて、まるでダブルデートのようで恥ずかしいではないか。困惑しているせいで、ダブルデートというはしゃいだ単語が脳みそから飛びだしてしまい、亮介は思わず携帯を床に叩き付けそうになる。
 まさか、バカが原因であるとは考えにくい。出会ってから今まで倉持に押し付けてきたバカの称号は数知れず。その度に腹を立てたり、落ち込んだりしていては、亮介の近くにはいられない。そもそも亮介は気にかけない相手をバカとは呼ばない。一種の愛情表現なのだ。倉持だって、そんなことにはとっくに気づいているはずなのに。
 週末に一度ぐらいは会うだろうという予想は裏切られつづけ、すでに日曜の夕方だ。丸1日連絡がないことですらそうあることではない。それがあと数時間もすれば、丸2日になる。
「…………」
 うじうじといつまでも悩むのは性に合わない。鬱陶しくなって、亮介はとうとう行動にでる。連絡先リストから倉持の名前をタップして耳に充てた。留守番電話に繋がる直前で、コール音が途切れる。
『……もしもし』
「倉持?」
『あー……、亮さん』
 ほんとうに倉持本人が応答しているのかと疑うほど、ひどい声だった。すべての文字に濁点がついている。ずず、と鼻を啜る音に顔を顰めた。
「風邪ひいてんの?」
『風邪ってほどでもないんですけど、ちょっと、その、……はい』
「なんでなんにも言ってこなかったんだよ」
『すぐ治んだろって思ったから』
「治ってないじゃん」
『いや、ほんと大したことないですから……』
「…………」
『昨日ほんとは会いに行きたいなって思ってたんですけどっ、』
 ぶち。言い訳はだらだらとつづくようだったが、最後まで聞かずに一方的に通話を終了する。会いにこなかったことは、今となってはどうでもいい。いつもはなんでもない些細なことでああだこうだと頻繁に連絡を寄越すくせに、こういうときに限ってなにも言ってこなかった倉持がむかつく。そしてそのことにむかついているのをよくわかっていない倉持がもっとむかつく。

***

 急に大人しくなった携帯を見つめながら、倉持はため息をついた。
「あーあ、やっちまったな……」
 ひさしぶりに怒らせた。亮介は、野球に関しては非常に厳しいし、その他の場面でも毒舌だわ理不尽なことをかわいい笑顔で言ってくるわとんでもない人ではあるが、そう簡単に腹を立てるタイプではない。怒る行為は、自分の感情を相手に曝けだすリスクを伴う。亮介がそのリスクを冒すのは、ほんとうに理解したいしてもらいたいと思える相手に限られている。
 つまり怒らせてしまったこの状況は、亮介の中で倉持がそこそこ重要なポジションにいるということを示しているのだが、当然手放しではよろこべない。なにしろああなった亮介は怖い。
 心配を掛けたくなかったから大したことはないと言い張ったが、実際つらい。ふだん病気とはまったくの無縁の身体は、ウイルスの侵入を許したあとは、なんともあっけなかった。病状は坂道を転げ落ちるように悪化し、いまや頭はがんがんと痛み、鼻は詰まり、そのうえ発作的な咳をくり返すといった有様だ。熱もあるのだろう、ぼーっとして、すべての感覚が遠くに感じる。挙げ句の果てに亮介の怒りまで買い、まさに踏んだり蹴ったりの状況だ。
 今電話を掛け直したところで、取り合ってもらえないだろう。回転の遅い頭では、うまい謝罪の言葉も思いつかない。とりあえず、眠ろう。少なくとも、風邪のほうは寝ればなんとかなるだろう。亮介のことはそれからだ。
 ばったりとベッドに倒れ込む。

――ピンポーーン。ピンポーーン。
 それから数時間、チャイムの音に意識がふたたび浮上した。
(なんだよ、宅急便かよ。めんどくせえな……)
 身体はだるく、起きあがることすら億劫だ。このままじっとしていれば郵便受けに不在票を落として去ってくれるだろうと、居留守を使うことにする。
――ピンポーーン。ピンポン。ピンポン。ピンポン!
 しかし音は一向に鳴りやまない。相手は容赦なくインターホンのボタンを連打しているようだった。
「ああもう、うるせえ!」
 とうとう煩さに耐えきれなくなって、ダンッと立ち上がる。大股で廊下を歩き、勢いよくドアを開けた。
「病気で寝込んでるこっちの事情も知らねえで!不在票でもなんでも突っ込んできゃいいだろっっ、……って!亮さん!?」
 てっきり宅配業者のドライバーが立っていると思いきや、そこにいたのは亮介だった。眉間に深い皺を刻んだ不機嫌面が、驚きの表情に変わる。
「うん。かなりひどい声だったから様子見にきたんだけど……、すごい出迎えだね」
「ひぃぃっ、すんません!宅急便かと思っ……」
 咳がこみ上げて、慌てて口元を覆う。ごほごほと苦しそうにする倉持の肩を亮介の手が宥めるように撫でる。
「ほら、中入るよ」
「ちょっと亮さん移るって!部屋も汚いし」
「うるさい。つべこべ言ってないで早く入れろ」
「はい……」
 引っ越してきて1年と少しが経つが、亮介が訪ねてきたのはこれまでに数えるほどしかない。右手にまとめて持っているのはドラッグストアやスーパーのプラスチック袋で、倉持を看病するために必要な物が入っているのは明瞭だった。熱に浮かされているのも相俟って、都合のよい夢でも見ているのではないか、という気がしてくる。目の前の背中にそっと触れた。手はすり抜けることなく温度を感じ取り、ここに実体があることを伝える。
「立ってるのもつらい?」
「あ、違……」
「これからなんか作るから、倉持は横になって待ってなよ」
「いいんですか、そんな」
「どうせ寝てれば治るとか言って薬も飲んでないんだろ」
「…………」
「はは、図星?」
「……亮さん〜〜」
「はいはい」
 倉持は、ベッドに転がって軽く目を閉じる。来てくれたことがうれしくてなにか話そうとしても、病人は大人しく寝てる!と聞く耳を持ってくれないから、諦めた。キッチンからは、亮介が作業をする音が聞こえてくる。シンクに水が落ちる音、コンロに火がつく音、鍋の中でなにかが煮える音。自分で料理をしているときにはなんの感慨も覚えないが、とてもあたたかい音だなと思ったらじんとした。
 すぐ近くに気配を感じて我に返る。ほんの一瞬だけ、うつらうつらしていたようだった。
「できたけど、起きあがれる?」
「はい……」
 上半身を起こして、ベッドヘッドに凭れる。亮介が作っていたのは、玉子粥だった。真ん中に梅干しが浮かんでいる。
「うまそう」
「ただの病人食だよ」
 器ごと差し出してくるのを、視線で拒む。
「亮さん……」
「風邪ひいたら手も動かなくなっちゃったの?」
 しょうがないね。呆れたように笑うと、器の中身をスプーンで掬って倉持の口元に近づける。
「ほら」
「ん。……やっぱうめえっす。最高!」
「味覚鈍ってるくせによく言うよ」
 ひと口、そしてもうひと口。そのたびに胃のあたりがほこほこするのはなにも、あたたかな料理のもたらす物理的な作用だけではない。こんなところを御幸や沢村に見つかったら、一生からかわれるのだろう。さいわいここには、亮介しかいない。
「なんか、夢みたいっす」
「なにそれ」
「俺、亮さんのこと怒らせたのかと思ってたから」
「うん、怒ってたよ。けど今の倉持見てたら、気が済んだみたい」
「どういうことですか……」
「あまえんぼの倉持もたまには悪くないよねってこと!」
「あ、あま……っ」
「小学生の春市だって風邪ひいたときはよくぐずってたけど、ごはんぐらいは自分で食べてたよ」
「なっ!」
 大学生もすっかり板についた年頃の倉持はあんまりの指摘に火照った顔を余計に赤くするが、スプーンが近づくとつい反射で食べてしまう。それをたのしそうに見守った亮介は、倉持の頭をぽんぽんと軽く叩く。
「でもさ、」
「?」
「次はすぐにお前のほうから連絡してきて欲しいよね……遠慮とかそういうの、むかつく」
「……!すいませんっ」
「次なんて、そうすぐには来ないだろうけど……バカは風邪引かないって言うし」
 そう言った亮介の表情がしまった、とほんのわずかに強ばったのを、倉持は見逃さなかった。
「あ、最後のメールもしかして気にしてました?すげえ中途半端なとこで切っちゃったけど、偶然ですから。返事書く前にぶっ倒れたんです」
「…………」
「俺、亮さんにバカって言われんの結構すきっすよ」
「知ってる!」
 ぐい、と器を押し付けられる。
「薬といちご用意してくる」
「……デザートまであるんですね」
 残りは自分で食べろってことか、と残念そうにしたのも束の間、倉持の頬は緩んだ。
 食事を終えた後はとりとめのない話をした。いつまでもそうしていたいという意思に反し、抗ヒスタミン剤の催眠効果に抗えず眠ってしまうまで亮介はそこにいたらしい。らしい、というのは本人の確認が取れていないからだ。会話をしていた記憶を最後に、翌朝目覚めたときには亮介はいなくなっていて、ドアの郵便受けに部屋の鍵が落ちていたから、倉持はそう解釈することにしたのだ。喉の軽い痛みと鼻のぐずつきを残しつつ、熱や頭痛はすっかりひいていた。亮さんのおかげっすよ!そのことを嬉々としてメールで報告すると、バーカ単純すぎ、と返ってきた。



おわり

長かった…。降春でもあったように、風邪をひいたらお粥&果物というのが小湊家の家訓(ねつ造)らしいです。2012.11.03

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