∇ 意地っ張りの意地とその融点 ローテーブルの上には、うずたかく積まれた漫画の山がみっつとマグカップがふたつ。先週、近所の古本屋で長期連載中の漫画を64巻まで大人買いしてからというもの、部屋に集まればもっぱら読書に勤しんでいる。 やらなければいけないことは他にもたくさんある。漫画の世界に没頭するのは倉持が来たときだけと決めているから、持ち主の亮介もだいたいおなじペースで読み進めている。ほんとうはひとりでは読む気にならないほど、紙のめくれる音のさまよう空間でふたりですごすのを心地よいと思っていることを、倉持は知らない。座る位置が固定されつつあるソファの、体温は感じても決して触れない距離がもどかしくて、頭ぐらい預けてくれればいいのにと思っていることを、亮介は知らない。 ストーリーがひと段落ついたところで、亮介がおもむろに口を開く。 「たん……」 言いかけたとたん、2巻先を読む倉持がぱっと顔をあげ、こちらを向く気配がした。もくもく膨らんでこちらにまで押し寄せてくる期待を、開いたページの中の主人公と視線を合わせたまま、桃色の前髪で受ける。 「……塩おいしいよね」 つづいた台詞に、期待はぺしゃんとつぶれた。それを取り繕うためか、倉持はいつものヒャハ!ではない、苦笑いのようなものを浮かべる。 「あー、そうっすね。焼き肉行ったらとりあえずタン塩食わねえと」 「倉持もそう思う?今度食べにいこっか。ふたりじゃつまんないから、みんな誘ってさ」 「はい……」 それからまた静かになる。 倉持が今日の夕方会ってからずっと浮き足立っているのも、その理由も、亮介はわかっている。 野球部時代、集団生活といえど誕生日パーティを開くなどということはほとんどなかった。そもそも常に練習で忙しかったし、部員ひとりひとりの生まれた日を祝っていたらきりがないほどの大所帯だ、それらを把握することすらままならない。今日が誕生日だと食事の席で告白しようものなら、おめでとうがそこらじゅうを飛び交い、プレゼントと名のついたおかずを大量に押し付けられる。年に一度のその日、亮介は同学年の部員と恐れ知らずの数少ない後輩から声を掛けられる程度に留まったが、倉持は毎年もみくしゃにされていた。鉄壁の二遊間の片割れとはいえ、それに混ざってチョップをお見舞いするぐらいの方法でしか、祝ったことがなかった。 二遊間が解消され、代わりに恋人になってからはじめて訪れた倉持の誕生日、高校生と大学生のふたりが会うことは叶わなかった。メールの1通も送ることができず、結局その年はなにもなしに終わってしまった。亮さんひどいっすよー、と後日ふざけながらも必死に訴えられるのを、いつもの笑顔でさらりと躱す。にも関わらず、亮介の誕生日には、倉持は電話を寄越した。誕生日おめでとうございます。生まれてきてくれて、ありがとうございます。シンプルでまっすぐな言葉だった。たかが誕生日で大げさ。そう返しながらも、亮介の顔は火照っていて、受話器越しであることにほっと胸を撫で下ろした。 そしてふたたびやってきた、倉持の誕生日。今年こそは、ちゃんと祝ってやりたい。のだが。 「たん……」 「!」 「……水魚の、ピラルクって知ってる?」 「知りません」 「世界最大で、すごいこわいんだって」 「ふーん」 少しむすっとする。亮介がわざとからかっていると思っているのだろう。気持ちを言葉や態度で表すことになんの躊躇もない倉持にはきっと、この葛藤は想像もつかない。 意地っ張りで負けず嫌いな性格は、必ずしも悪いわけではない。事実、この性格からくる強気なプレーでレギュラーの座を射止めたのだ。ただ、付き合っていて、他の人には絶対に踏み込ませない部分まで許しているはずの相手に、誕生日おめでとうのたったひと言でさえ素直に伝えられないとまでくると、さすがに疑問が生じる。 なりふり構わずぶつかってくる倉持が、いとしい。なのに、その気持ちを言葉や態度でろくに返しもしない自分は、どんな風に映っているのだろうか。あまりの手応えのなさにそのうち飽きて、ぶつかるのもばかばかしくなりはしないだろうか。今はどんなに冷たく突き放しても駆けよってくると確信できる振る舞いを見せる倉持だって、誕生日すら祝ってもらえなかったら、もしかしたら、いつか。 「……っ」 この身体にすくっているこころが発しているとは信じがたい弱気な考えに、亮介はくちびるを噛む。悔しい。こんなのは、だめだ。どんな場面でも自分らしさ――たとえそれがほとほと困らされている要因だとしても――を貫くのが、せめてもの意地というもの。 漫画から顔をあげて、余裕たっぷりの表情で倉持を見据える。 「たん……」 「…………」 「波ピカ一郎」 「丹波さんがどうかしたんすか。……つーかもう光ってないし」 「ははっ、それもそうだね」 「…………」 「おめでと。今日だよね?知ってたよ、それぐらい」 結果、たんたん言っていたくせに誕生日というキーワードも入っていない、なんとも上から目線なお祝いになった。それでも、倉持は感激しきった様子で亮介を見つめ、半端な距離をぐいと詰めた。ほんの少しだけ迷った末に、呼吸もできないほど力強く抱きすくめる。 「亮さんっ」 「苦しいんだけど」 「言ってくれるの、ずっと待ってました……!」 「たん」からはじまる言葉が尽きる前に、今日が終わっちまうかと思いましたよ。 見た目よりも柔らかい髪が頬や耳をくすぐる。声は細かく震えていて、その上、ぐしぐし鼻を啜る音まで聞こえてくる。あんな祝っているうちにも入らないような言葉に大喜びしている倉持が、なんだかかわいそうになってきた。 「お前さ、こんなんでいいの?」 「え?」 「もっと、まともに祝ってくれるやつなら他にも、」 「なっなに言ってんすか!」 両肩をがしりと掴んでおでこ同士をくっつけて、焦りを隠しもしない双眸で至近距離から覗き込む。 「亮さんだから、いいんです」 「…………」 「そりゃ、素直じゃねえなぁって思うときもあるけど、そういうところも含めてぜんぶが亮さんだし、だからこそすきっていうか……でも、今みたいにちょっとらしくねえ亮さんもすきだし……、とにかくっ亮さんじゃなきゃだめなんです。他には誰もいません」 「…………」 「亮さんっ」 「……こんな日に俺を喜ばせてどうすんだよ、バカ」 囁いて、くちびるを寄せた。目の前の頬がかっと赤くなる。 「誕生日、おめでとう」 「ありがとうございます」 倉持のほうから口づける。亮介はたった一度、ほんの一瞬触れただけだというのに、調子に乗って何度も触れてくる。今日だけは仕方がないので許してやる。膝で丸まっている手を背に持っていき、身体の力を抜いて預ければ、至極うれしそうにヒャハと笑った。読みふけっていた漫画はいつの間にやらソファのすみに追いやられている。 くちびるだけでは飽き足らず首すじに伝わせる獣じみた仕草に、ぞくりと寒気がした。 「ん、もういい加減に……」 「今日から同い年ですね」 「数か月じゃん。どうせすぐ追い越すよ」 「そしたらまた追いつきます」 当たり前だ。わずかに開いた年の差はどうあがいたって、縮まりも広がりもしない。むだなことにやけにむきになる倉持に、亮介は眉を寄せる。 「なにが言いたいんだよ」 「だから……、これからもずっといっしょにいてください」 終わりのない、追いかけっこをずっと。 「倉持のくせに、欲張りすぎじゃない?1年分の誕生日プレゼントじゃつりあわないよ」 せめて一生分ぐらい、犠牲にしてもらわないとね。 やみかけていた口づけの雨が嵐になって、言外ににおわせたそれを倉持が汲み取ったのだとわかる。 「亮さん……ちゃんと集中してますか?なんかべつのこと考えるでしょう?」 「…………」 冷蔵庫に入りっぱなしになっているコンビニのロールケーキをどうしようか、考えていた。 おわり 学年がひとつ違っても、年齢差が1年以内で同い年の期間があるほうがおいしいと思うので、倉持のバースデーが先ということにしました。らっぶらぶ!はりさん誕生日おめでとうございました!2012.10.23 main . |