∇ つづけ、夏 部屋はしん、と静まり返っている。 同室の桑田は昨日の朝早く、がんばれよな、というシンプルな言葉を最後に寮を出ていった。肩を落とした背中に向けて、そこにあるだけの気丈さを乗せた声ではい、と答えるのが春市の精一杯だった。実の兄にもまだ声を掛けられないでいるのだ、それ以外何と言えばいいのかわからない。これまでお世話になりました、お疲れ様でした、先輩もがんばってください、どれも安易で、相応しくない気がした。 ベッドのふちに腰掛けていた春市は、ぱたんと上体を倒し、目蓋を閉じた。自主練でそれなりに動いたはずなのに、眠気がやってくる気配はない。ふと気を抜けば、押し込めたはずの悔しさがどこからともなく浮かんできそうだった。亮介と、あの頼りになる3年生たちと、甲子園へ行く夢は半ばで途切れてしまった。それでも、まだチャンスが残っている自分たちは進みつづけなければならない。立ち止まっている暇はない。 入口のドアが開く音に、遠くに行きかけていた思考を引き戻される。監督に呼ばれた前園が帰ってきたのだろう、と察しがついた。 「なんや小湊、寝とるんか。電気も付けっぱなしで…」 「あ…いや、考え事してただけです」 「そうか。…それよりな、」 「?」 「新キャプテン、御幸に決まったで。そんで俺と倉持が副キャプテンや」 「そうですか…」 チームの主力のひとりである御幸がキャプテンになったというのは、驚くことではない。ベッドから身を起こし、スニーカーを脱ぐ前園を見ながら、春市はちいさく、しかしきっぱりと言った。 「適役だと、思います」 「せやろ。俺も監督に言うたんや。アイツ以外考えられへんって…」 「ゾノ先輩も含めて、ですよ」 てっきり御幸のことだけを指していると思っていた前園が、顔をあげる。 「ゾノ先輩にはいつも引っ張ってもらってますから。昨日だって、ああいう風にはっきり言ってもらわなかったら、もっと引きずってたかもしれないし…」 尊敬を隠さない素直な言葉に、ぽかんとしていた表情が崩れてへんになる。嫌われることも臆さない遠慮のない物言いと態度で後輩たちをまとめあげるこの先輩は、褒め言葉には案外弱い。 「な、なんや急に」 「急じゃありません。前からそう思ってました。合宿で自信なくしてたときも…」 「もうええわっ。気持ち悪い…あっ気持ち悪いってそういう意味やなくてなっ」 取り乱す前園がおかしくて笑いそうになった春市は、慌てて俯く。 「先輩って褒められるの苦手ですよね」 「褒められるなんて滅多にないからな…って先輩からかうのもええ加減にせえ!ほれ、これでなんか飲みもん買ってこい」 おもむろにジャージのポケットから取り出した小銭を渡される。100円玉が2枚。 「自販機寄ろう思っとったのに忘れてな。小湊、お前は頭冷やしてこい」 「コーラでいいですか?」 「おう。釣りはいらん。少し足してお前の分も買ってきたらええ」 「わ、ありがとうございます…!」 いかつい見た目に大きな声、ここへ来た初日は怖い先輩と同室になっちゃったよどうしよう、と焦ったものだったが、その考えは徐々に改まり、今となっては正反対になった。初めに受けた印象とは裏腹に、前園は気配りもできる優しい人だ(しかしこれを本人に言ったら今度こそ、じゃかしい!!と怒鳴られるに違いないのだ)。そしてその人にかわいがられている、という自覚が春市にはなんとなくある。ぺこりと軽く頭を下げ、受け取った小銭と財布を手に部屋を後にした。 暦の上ではまだまだ夏は真っ盛りだ。さんさんと照る陽が影を潜めているこの時間帯でも、漂う気はたっぷりと熱を含み、クーラーで冷やされた身体にまとわりつく。それを少しずつ振り落とすように、とんとんと階段を下りながら空を仰げば、大三角が瞬いているのがよく見えた。 「「あ」」 自販機の前、青白い人工的な光の中にお互いの姿を見つけて、ふたりは短く声をあげた。 「降谷くんも先輩のパシリ?」 質問に対し、ちいさく首を振る。 「自分のを買いに来ただけ…」 風呂からあがったばかりなのだろう降谷はさっぱりとしていて、タオルで水分を拭っただけの髪はまだ湿っている。こうしてふたりになるのは、あの敗戦以来はじめてのことだった。直後は、食堂ですぐとなりに座っていても、自分の中の感情にいっぱいいっぱいで降谷のことにまで気を回すことはできなかった。あれから2日。さきほど顔を合わせた降谷は、今まで通り飄々としているようで、まったく同じではなかった。彼の中でもなにか変化があったのかもしれない。 知りたい、と思う。 「走ってたの?さっきまで」 「…うん」 「少し…しゃべってこうか。せっかくだし」 そう言うのには、いくぶんの緊張を伴った。なにがせっかくなのか、自分でもわからない。降谷はなにも返さず、やや緩慢な動きで自販機が沿って並ぶ壁にそっと背を預けた。それが了承のサインなのだとわかった春市も、となりに凭れる。静かな夜、コンプレッサーが低く唸る音だけが聞こえる。 「また明日から始まるね…」 「うん」 「新キャプテン、御幸先輩になったみたいだよ」 「……(へえ、あの人が…)」 「…栄純くんとなんかあった?」 「なんで」 「夕ごはんのとき、栄純くんが騒いでたから」 「………」 降谷は地面を見つめている。聞いちゃいけなかったかな、と気まずさを感じはじめたときになって、ようやく口を開いた。 「もう、ああいうのは嫌なんだ…」 「………」 「球が抜けて、稲実の人たちが駆け寄って……。それをただ見てるだけの自分はもう、嫌なんだ…」 「…降谷くん、」 「エースには僕がなる」 「……!」 戦慄が走る。 質問の答えになっていない。それでも沢村がこの決意を目の当たりにした、とすれば先ほどの様子にも納得がいく。それで、キングオブエース、だったわけか。 食事の後、あの試合のDVDを見ると言った沢村。つい昨日までなにも映していなかった瞳は、いつもの強い輝きを取り戻しつつあった。彼もまた、前に進もうとしている。奮い立つきっかけは、降谷だったのかもしれない。こういうのをライバルと言うのだろう。しのぎを削る姿に、羨ましいと感じることすらある。 息が詰まるほどに張りつめたオーラが、不意に緩まった。 「小湊くんは…、もう吹っ切れた…?」 そのなんでもないような言葉に、どきりとする。他人に対して関心をあまり示さない降谷の、予想外の問いかけ。さっき春市が降谷の中で起こった変化を知りたいと思ったように、降谷も春市のことを気にしてくれているのだろうか。思わずとなりを向くと、降谷もこちらを見ていた。その眼が優しい気がして、大きく波打った血液はふたたび凪いでいく。 春市は壁から背中を剥がし、代わりに危なげのない肩に頭を預けた。せっけんのにおいがする。答えなきゃだめかな、もう少しだけこうしていたら伝わらないかなぁ。そう考えていたら、まるで図ったかのようなタイミングで右手が春市の二の腕のあたりに回ってきた。引き寄せるでもなく、決まり悪くそこに貼りつく手は、剛速球を放つ手とおなじに思えない。あたたかいはずの触れている部分が、なぜかしびれて冷たい。 刹那にも劫にも感じられる時が流れる。 「うおおおおーーーー!!!」 穏やかな空間を裂くような雄叫びに、降谷と春市はぎくりと身体を強ばらせた。 「やるぞ!俺はやるぞーー!!」 聞き間違えることのない声に、笑いがこぼれる。 「ははっ、栄純くん…」 「………(負けない…!!)」 かたや降谷はふたたびオーラを燃やす。やっぱりこうでなきゃ。すっきりとした心持ちで、春市はようやく自販機に小銭を入れた。がこん、がこん。コーラとりんごジュースの缶が落ちてくる。 「さっ、そろそろ行かなきゃ!ゾノ先輩に怒られる。おやすみ」 「…おやすみ…」 缶を抱えて早足で歩く途中で思い出して、振り返った。光の中の横顔に届くように、大きく息を吸い込む。 「明日からまたがんばろう!…俺だって、栄純くんや降谷くんに負けないよ!」 それがさっきの答えだった。 おわり こういうやり取りがあったらいいのにな、っていう切ない希望。一人称はぎりぎり俺!2012.09.23 main . |