たかがチョコレートされどチョコレート | ナノ

∇ たかがチョコレートされどチョコレート


 帰宅するなり、春市は重たい頭をローテーブルに預け、とうとう突っ伏した。なんだかおもしろくない。なんにもおもしろくない。今日は朝からずっとこんな調子だ。
 そもそも、今日という日が悪い。買うなり作るなりした思い思いのチョコレートを女の子が意中の相手へ送るこの日には、どんな偉業を成し遂げたのかは広く知られていないが兎にも角にも、聖人バレンタインの名前がついている。
 渡すほうは当然、渡すまでの段取りや恋の行方で頭がいっぱい、緊張に胸を高鳴らせる。好意を示されて悪い気はしない、受け取るほうは受け取るほうで、かわいい子が包みを手に近づいてきやしないかと、気もそぞろである。つまりは皆が浮かれるはずなのに、どういうわけだか春市は浮かない。こんな状態に陥っているもうひとつの直接の原因であろう、まだ帰って来ていない同居人のことを思った。
 出会ったときから、恐らくそれよりも前から、降谷はもてる。高校時代、常日頃から女の子の視線を集めていた彼は、バレンタインともなれば大忙しになった。大所帯の野球部のなかでも看板投手のひとり、端麗な容姿も相俟って、学年を問わず知名度は高い。クラス内に留まらず、授業の合間の休み時間には他の教室からも女の子が訪れぐるりと机を取り囲み、チョコレートを手渡す。かたや春市は、漫画やドラマさながらのその光景を後ろの席からぼんやりと、視界のすみに捉えていた。女の子みたいという評価を得る春市が、異性として好意を寄せられることはそう多くはなかった。
 不意に抱きしめあっていた当時も、どうやら恋人同士らしいということがはっきりした今も、降谷が年にたった一度大量のチョコレートをもらうのに文句をつけるような恰好の悪い真似はしたくはない。降谷の行動をいちいち縛りつけるのは、春市にとっては恥ずかしいことだった。むき出しの執着や嫉妬など見せられたものではないし、認めたくもない。だいたい、たかがチョコレートのあまさに誘われて、どこかへ行ってしまうとは考えにくい。そんなものがなくても、通じ合っているのはわかっている。だから到底食べきれそうもない山を前にどこか呆然とする降谷のとなりで、いいなぁなどとさっぱり笑ってみせるのだ。
 恋人なら、ああだこうだ言い訳を並べ立てていないで、イベントに乗じて堂々とチョコレートを渡せばいい。しかし春市だって男だ、そういうわけにもいかない。本来ならば受け取る立場にある。いくら抱かれる役回りだからだといって、バレンタインを巡る立場までひっくり返そうなど、意地が許さない。女の子で大賑わいの売り場に足を運ぶことを考えただけでも、羞恥と嫌悪に苛まれる。
(……だったらもうこんなこと考えなきゃいいのに)
 組んだ両腕に顔を埋めたまま、籠もったため息を落とす。こうして割り切ることも開き直ることもできずにうじうじとしている自分が、なによりもおもしろくない。


「ただいま」
 テーブルに沈みこんでふてくされる春市の背中に、おもむろに声が降る。一向に軽くならない頭をどうにかあげて振り返れば、すぐ後ろに突っ立っている降谷のジーンズのブルーが視界を占めた。そのままじりじりと視線を上昇させるが、予想していた大量のチョコレートは見当たらない。空腹のあまり、すべて食べてしまったのかもしれない。はたまた、帰りの電車に袋ごとまとめて置き忘れでもしたか。
「……おかえり」
 声のトーンのあまりのひどさに、逃げ出したくなる。野球を通してともに噛み締めた悔しさや苦しさはべつとして、恋人としてとなりにいるときはいつだって笑っていたいのに、これでは言外に責めているも同然だった。
 降谷がごそごそとかばんを探る。中から出てきたのは、シャンパンゴールドの包装紙とダークブラウンのリボンで綺麗にラッピングされた薄い箱だ。にわかにこころがざわめきだす。ほら、やっぱり。それはどこからどう見ても。それも皆に配るのではなく、たったひとりのために用意された類いの。いちばん見たくなかったものがさっそく現れて、春市は辟易する。
 よかったね。そう言おうとしたのに、喉が勝手に閉じて拒んだ。必死に隠しているどろどろとしたなにかが今にもこぼれそうになって、春市はすばやい所作で立ち上がった。言い訳は後で考えればいい。今だけは、ひとりになりたい。
 俯いたまま早足で自室へ向かおうとした瞬間、手首を捕らえられた。
「待って」
「ちょっと疲れてるから、部屋で寝てくる」
「その前に、これだけ……受け取ってくれる?」
「え?」
 思ってもみなかった台詞に、時が静止する。意味すらわからず、しかしどんな表情をしているのか知りたくて振り返った。視線は、戸惑う春市をひたむきに眸に映す、いつもとなにひとつ変わらぬように見える降谷の顔をさ迷い、やがて引き止めるのとは反対の手に握られた箱に吸い寄せられる。
「これ……、僕に?」
「うん」
「降谷くんから?」
「うん。他にいる?」
「……」
 ふるふると首を振るも呆然として受け取れずにいると、物事を説明するのが下手な降谷がぽつりぽつりと弁解をはじめる。
「2月にチョコがたくさんもらえる日があるとは思ってた……」
「……」
「それがどういう意味なのか、今年はじめて知った」
「降谷くんまさか今まで知らなかったの!?」
 神妙な面持ちをして頷く姿に、絡まっていたものがほどけて、たった今までの葛藤がすうと薄まり消えてゆく。ふつふつとこみ上げてくるうれしさが促すままに笑いたいのに、不機嫌だった態度を唐突にひるがえすのが照れくさくて、どんな表情をしたらいいのかわからない。目の前のやたらかしこまった箱は、手を伸ばせば、すとんといとも簡単に春市のものになった。
 これを手に入れるために、降谷は悩んだりしたのだろうか。チョコレート売り場でたったひとり、好奇の目に居心地の悪さを感じたのだろうか。きっと違うと、確信に近い直感がひらめく。周りに女の子しかいないことにすら気づかないほど、ひたすらまっすぐに春市を想っていたに違いなかった。あれだけ躊躇し結局できないでいたことを、なんでもないみたいにやってのける降谷が、まぶしくていとしい。
「ありがと。うれしいよ」
「どういたしまして……」
 ふたりして、ずるずるとラグの上に座りこむ。両腕に包まれて、しばらくのあいだパッケージをただじいと見つめた。いよいよ決まりが悪くなって、降谷は春市の髪に鼻先をうずめた。
「開けてもいい?」
「どうぞ」
「食べてもいい?」
「うん。ていうかそれ、もう春市のだからなんでも……」
 思い切って蝶々結びの裾を引っぱり、箱のふたを持ちあげれば、それぞれ違うデザインのチョコレートが8粒、誇らしげに並んでいる。それぞれが降谷の気持ちの分身なのだと思い至ったら、食べる前から心臓がぎゅうとあまく痺れた。説明書きは敢えて読まずに、うずまきが描かれたひと粒を口に運ぶ。溶ける途中で、片頬をふっくらと膨らませたまま、ついに相好を崩す。
「ん、キャラメルだ」
「あまそう」
「おいしいよ。そういえばさ、降谷くんは貰ってこなかったの?いつも袋いっぱいに貰ってたじゃん」
「もう貰わない……。付きあってる人がいるから受け取れませんって断った」
「あ、そうなんだ」
 言うまでもなく自分の事である。付きあっている人、という当たり前の表現に春市は改めて照れた。
「春市は貰った?」
「うん……いくつか」
「……」
「どうせ義理だって!」
「義理?」
「なんにも特別な意味がないってことだよ。みんなに配ってるんだろうなぁ、っていうカップケーキとかブラウニーとか」
「僕は全部断ったのに……」
 どうやら機嫌を損ねてしまったようだ。抱きしめる腕こそ緩めないものの、不満いっぱいの空気をいささかの躊躇もなく放ってくる降谷の首すじに顔をぐりぐりと押し付ける。降参だった。今日はほんとうに、まったく適わない。そんな態度を取られてしまったら、春市のほうだってかたくなに握りしめていたてのひらを開かずにはいられない。そこに乗っているのは、隠していた感情ひとつ、ふたつ。
 肩に両手を置き、視線を絡ませる。
「ごめんね。来年からはもう貰わない」
「……」
「でも、僕だって、嫌だったんだよ。降谷くんすごい人気で、高校のときからいっぱいチョコ貰ってて……、なんでもないふりしてたけど、ほんとはずっと嫌だった」
「それは、よく意味わかってなかったから……」
「今はもうちゃんとわかってる?」
「うん」
「ふふ。降谷くんもひとつ食べなよ。おいし、」
 唇を奪われる。髪を梳き、頬を撫でる指先は、投げる球の力強さからは想像もつかないほど繊細で優しい。もっと。回した腕で引き寄せ、めずらしくもまだ暗くならない時間に深い口づけを許す。角度を変えようとしたときに春市から転げ落ちた小さな息に、降谷の意識はそよいだ。数日前の情事が思い出されるほんのすこし前に、名残惜しく離れる。
「やっぱりあまい……」
「チョコなんだから当たり前でしょ」
 惚けているからといって今のはなかったか、と言い直す。
「1か月後、たのしみにしてて」
「?」
「ホワイトデー。バレンタインのお返しをする日だよ」
「そんな日あるんだ……」
「あんなにたくさん貰っといて、1回もお返ししたことないなんて、ほんと大物だよね」
 でも、僕以外の人にあげてなくてよかった。耳元で囁く。
 時をおなじくして降谷は、じわじわと広がりつづける、はじめてまともに過ごすバレンタインのすばらしさにすっかり心酔していた。



おわり

イベント物が書きたくなりました…が、フライングもいいとこですね。今回は降谷くんがすきすぎる春っちで。亮さんまではいかなくても、春っちはすこし意地っ張りでもかわいいと…思います。2012.08.24

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