∇ 見え透いた世界 午後のラッシュアワーに突入するかしないかの時間帯に走る下りの電車は、やはりそれなりに混んでいる。降谷はドアの近くに凭れ、窓ガラスにはりつく細かい水滴どうしがくっついて次第に大きくなりながら進行方向とは反対に流れていく様子を、なにとはなしに眺めた。2駅か3駅乗った頃に降りだした雨は、アパートの最寄り駅に着くまでには止みそうもない。朝のニュースのお天気お姉さんは、この雨を予報していただろうか。記憶を巡ってみたところで、最もぼんやりとしている時間帯の細かい出来事など思い出せるはずもなく、降谷の意識は水滴に舞い戻る。いずれにしても、思い出せたところで、傘を持っていない状況が解決するわけでもない。 試合中に降られる多少の雨は気になりもしないが、とりわけ濡れるのを好んでいるわけではない。日常生活では当然、濡れるのを極力避けたい。たとえばこれがさらさらの雪だったら、傘なんか必要ないのに。つかみどころのない空を相手に、いささかむっとしてみる。 目的の駅の改札をくぐり抜けてすぐ、名前を呼ばれる。声を辿って振り向けば、駆け寄る春市がすぐそばまで迫ってきていた。 「あ、春市」 「降谷くんもちょうど来るかなって思って待ってたんだ」 「なんで……?」 「傘持ってる?」 「持ってない」 「やっぱり!」 思っていた通りの答えに表情をぱっと明るくし、機嫌よく右手に持った傘を揺らす。 「急に降ってきたから買ったんだけどさ。どうせなら無駄なく使いたいよね」 ほら、降谷くんも買っちゃったらもったいないし。傘はもう家に何本もあるし。ちょこちょこと足された台詞を言い訳と取ったら、うぬぼれていることになるのか、判断がむずかしい。口数は少ないわりにわかりやすいのは降谷、春市はどこかつかみ所がない。だから余計に捉えようとして目を凝らしてしまう。 北口の屋根ぎりぎりのところで開いた安っぽいつくりのそれを、横からひょいと取り上げる。 「僕が持つよ」 真意がなんであれ、恋慕する同居人が自分のことを気にかけて先に帰らないでいてくれた事実は、降谷のこころを浮かすのには充分だった。足取りだって、軽くなる。屈んで歩かせるつもりなど元よりなかったのに先回りされてしまった春市は、慌てて歩調を合わせた。雑踏に溢れる音をかき消す雨の音は、世界をずっと狭くする。 それにしても、直径65センチでは狭すぎる。べったりと寄り添うわけにもいかず、柄の位置でほんのわずかに揉める。 「肩、濡れてない?」 「そっちこそ。降谷くんのほうが大きいんだから、もうちょっと使ってもいいんだからね」 「買ったのは春市……」 「こんな時だけ遠慮しなくていいよ、100円だし」 「100円あったら、うまい棒3つとベビースターラーメンとフーセンガムとチロルチョコが買えるじゃん」 「小学生!?てゆーかうまい棒10こじゃなくてちゃんとコーディネートするんだ……」 「春市はなにがすきだった?駄菓子」 「……ヨーグル。兄貴には趣味悪いってさんざん言われたけど」 「へえ」 「でも兄貴のほうがお小遣い貰ってたから、ときどき買ったお菓子分けてもらったりしてたなぁ」 「……」 「降谷くんは?」 視線を落として昔を思い出していた春市が不意に、顔をあげた。淡い襟足に気を取られていた降谷は、即座に反応することができない。 「……なにが」 「どんな小学生だったのかな、って」 「背が、高かった」 「それ、今もだよ……。そうだ、スーパー寄ってこっか?夕飯の買い出し」 「行かなくて、いい」 「え?チャーハンとかしか作れないけどいいの?」 「うん」 「いいならいいけど……、変なの」 まだ、傘を閉じたくなかった。薄いビニール越しに見上げる空は暗い灰色、表面についた水滴が他の水滴を巻き込んで大きくなりながら、滑り落ちる。雨はまだ止みそうにない。ついさっき、まったく同じことをまったく違う意味で思っていたのは、記憶の彼方である。 せめて透き通った色じゃなかったなら、最後の角を曲がった細い通りでこっそり口づけぐらいできたかもしれないのに。邪な考えはなぜかとなりに伝わって、結局マーケットに寄ることになる。 おわり ななななんか恥ずかしい!わたしの書く降谷くんは春っちがすきすぎる。2012.08.19 main . |