オーシャン | ナノ

∇ オーシャン


 なんでもない週末、シーツの波がふいに寄せる。どちらからともなく手を取りあった。
 触れあわせるだけの稚拙で、それでいて甘美な口づけに迷いこむ。ふんわりと閉じた目蓋の下でふたつの思惑が揺らめく。ひそやかな息をつくためにいったん離れ、ふたたび触れる瞬間、鼻先がくすぐったい距離で降谷は囁いた。
「今日は最後まで、したい」
 すぐそこにある柔らかであたたかい温度に早く触れたくて、じれったい。しかし今の言葉は聞き捨てならない。拾わなければと必死になればなるほどうまい返事は指先をすり抜けるから、春市はまるで意味がわからなかったかのように小首を傾げるのがやっとだった。
「……?」
「最後まで……」
 こころに入りきるだけの勇気を切り出すことだけに使い切ってしまった降谷もまた、似たような言葉をくり返すのがやっとなのだった。
 ふたりは降谷の言う「最後」にいまだたどり着いたことがない。ぼやぼや曖昧にはじまった関係は霧がゆっくりと晴れていくかのごとく、その姿をはっきりとさせつつある。優しく抱きあったり口づけたりするだけだったのが、じかの肌に触れるようになった。
 その先を知ってしまったらきっともう、知らなかった頃には戻れない。核心を衝くのはいつだって、恐ろしい。底の見えない未知の恐怖さえ凌いで逸る気持ちを持て余し、降谷は項に添えた熱っぽい手を背に伝わせた。薄い肩が跳ねる。
 黒い両の瞳はどこまでも深く、ふだんのぼうっとしている時はもちろん、グラウンドでの勝負の時とも違う色を映している。すっかり呑まれた春市は、降参の意味を込めておだやかに笑った。今度は降谷がわからないという表情をする。
「しよっか」
 囁き声も溶けないうちに、唇をあわせる。相変わらず触れるだけのかわいらしい口づけは長く、呼吸を奪う。ふたりの身体を受け止める青いシーツがついにほんとうの海になって、ちいさな泡に包まれながら沈んでいく心地がした。

「で、どうするの?」
「…………」
 ブランケットをすみに追いやったベッドの真ん中、下着一枚という情けない格好で体育座りで向かいあっている。確かに誘いだしたのは降谷のほうだったが、それにしたってまるごと投げてよこすのはずるいと降谷は不満気に口を結ぶ。
 4日前に触れあった時のほうが、よっぽど自然にことを進めることができた。いつもなら意識しなくとも存在する流れは、最後まですると決めたとたんにきれいに凪いでしまった。これから求めあう恋人同士にはとても見えない。膝のてっぺんを見つめていた降谷が、ふとなにかを思い出した様子で立ち上がり、クローゼットの奥から取り出したプラスチック袋を片手に戻ってくる。おもむろに手渡されたそれの中身を確認した春市は、かぁぁと赤くなった。
「……!」
「なかったらできない」
「そうだけどっ」
 よく行くドラッグストアのロゴがプリントされた袋には、コンドームとローションとくしゃくしゃのレシートが入っている。生々しくて、思わず顔を背ける。
「これ…っ、どうしたの?」
「買った」
「ひとりで?」
「うん。……もしかして、いっしょに行きたかった?」
「そんなわけないじゃん!!」
 あまりに見当違いな問いかけを、全力で否定する。ドラッグストアのレジのたまに見かける店員にこれらの物を差し出す降谷を想像するだけでもくらくらするのに、ふたりですることを平然と考えつくこの目の前の脳みそはいったいどんな風にできているのだろう。降谷の思考回路は、ときに春市にとって脱出することのできない迷路だ。
 しかしそれに救われているのは、紛れもない事実である。道義に外れていると罵られてもおかしくない関係を素直に大切だと思うことができるのはきっと、降谷が気にする素振りも見せずにやけに堂々としているからだ。今はぼんやりとベッドヘッドに凭れている、ありがとうと告げても恐らく理解しないその人にそっと近づく。鎖骨の窪みに唇を落とし、肩に頬をすり寄せあまえるように凭れ掛かる。一連の接触は、ぎこちなく滞る空気に流れをつくりだすにはじゅうぶんすぎるほどだった。
 口づけはようやく深くなる。舌を合わせたまま下着のウエストに手を掛ければ、春市はほんのわずかに身を強ばらせる。それでも抵抗の意思は示さずに、おずおずとおなじく手を伸ばしてくる。降谷は大人しく腰を浮かせた。包み隠さない姿で抱きしめあう。ひたひたと染みこんでくる相手の体温がここちよい。背に回っている手が照れたように丸くなる。
 まだ口づけしか交わしていないのにも関わらず暴きあったそれがすでに熱を帯びているのは、ぴったりとくっついた瞬間から気づいていた。腕をゆるめ顔を見合わせれば、示し合わせることなくなにを求めているのかがわかる。おたがいのものに右手を掛ける。意図せず先端が触れあったときに走った痺れるような刺激に、息をのんだ。
 唇を噛んで耐えていた春市がとうとう観念してはぁ、と熱のこもった息をつく。ふたたび押し込めることはむずかしく、それらしい声がこぼれはじめる。一挙一動を逃してなるものかと降谷は感覚を澄ませた。
「ふ……、ぁ……っ」
「気持ちいい?」
「……そういうこと、言いたくない……」
 気持ちがよくないはずがない。見ればわかるだろうに、無遠慮にわかりきったことを聞いてくる降谷を前髪のあいだから軽く睨みつけたつもりだったが惚けた視線は相変わらずで、効果はあまり認められなかった。悔しくて懸命に動かそうとする手は、意思がうまく反映せずに震えている。
 だしぬけに強く擦り上げられて、迫りくる射精感を耐えることができなかった。
「あ、あぁ……っ」
 果てる瞬間の快楽に、ぎゅうと目を瞑る。身体をぐるぐると巡る余韻に朦朧としつつ目蓋をあげると、たった今出したもので汚れた降谷の手が視界に入った。冷静さがさっと舞い戻って、春市は居たたまれなくなる。
「ごめん……!」
「なにが?」
「なにがってその……。降谷くんもよくしてあげるね」
 今度こそと伸ばしかけた手は、降谷によって遮られる。
「僕はいいから」
「……?」
「もう慣らしていいかな、あんまり我慢できない……」
 春市の中がいい、と呟く声は掠れている。内容もさることながら、こんなに余裕のない声を聞くのは初めてで戸惑う。しかしすきな人に苦しいほど求められるのは決して悪いものではなく、満たせるのなら差し出しても構わないというやわらかな感情がこころを囲んだ。言われている台詞の意味もはっきりとわからないままこくこくと頷く。
 とりあえずされるがままになる。うつ伏せにされたと思ったら、腰の部分を持ち上げられる。すべてを晒すことになるあんまりな体勢に感情はみるみるうちに羞恥へと色を変え、春市は言葉を絞りだして抵抗を試みる。
「降谷くん……、やだ、恥ずかしい……っ」
「本にこれがいちばん楽って書いてあったから、我慢して」
「本?」
「うん」
「…………」
 ハウツー本だろうか。とにかく予備知識をつけたらしい。テストの前に勉強をちゃんとすることもおぼつかない降谷がいつのまにそんなものを、と呆気にとられるのと同時に、自分とのあれこれを想像しながら読みふけっていたんだろうか、と考えるとこころがむず痒くなる。
「だいじょうぶだよ、春市のことしか考えてなかったから」
「……そう」
 しばし走った沈黙を、部屋で見つけてしまった恋人のいかがわしい本に対する嫉妬心と履き違えた降谷があっさりと心配を肯定し、春市はがっくりと項垂れる。楽じゃなくていいから体勢を変えてもいいか訊ねようとした時、尾てい骨のあたりに冷たさを覚えた。ぬるぬるとしたそれを指が塗り広げる。背中を粟立たせる慣れない感覚と視線にますます煽られる羞恥をどうにかまとめて撫でつけようと、枕を引き寄せた。
 撫でたりくすぐったりしてローションが肌の温度に馴染んだころを、見計らう。浮きあがる肩甲骨にひとつ、口づけを落とした。
「力抜いてて」
「……んっ」
 忍び込ませたすべりのいい指は大きな抵抗もなくふたつ目の関節まで埋まったものの、受け入れてくれるとは到底思えないほど狭い。降谷は気が遠くなる。
「痛くない?」
「んぅ……っ」
(痛くないってことかな?指動かしていいかな)
「ん…」
(感じるところがあるって書いてあったけど、春市のはどこだろう)
 ついさっき下手に気持ちいいかどうか訊ねて拒まれてしまったから、おなじことを問うのは憚られる。仕方なくかわりに反応をうかがいながら、中を探る。本の情報を思い出しては、指を抜き差ししたり壁を擦ったり試行錯誤する。
 いつまで経ってもはっきりとした反応が得られない一方で、初めて触れる春市の内側に気持ちばかりが逸る。なりふり構わず繋がってしまいたい身勝手な欲をなんとか押しとどめていると、ぱた、ぱた、となにかがシーツに滴り落ちる音が聞こえた。覗きこんで、はっとする。一度果てた春市のそれが、ふたたび立ち上がって先走りを零している。
「はぁ……っ」
「春市?(もしかして、感じてる……?)」
 あられもないところをかき乱されて感じているのを見つかりたくなくて、枕に顔を押し付けて必死に声を殺しているようだった。そんな春市がいじらしくて、ようやく勉強した通りに物事が進みはじめたことがうれしくて、降谷は内心ほくほくと舞いあがった。どんなに繋がりたいと願っても、春市がここで感じてくれなければ話にならない。前にも手を伸ばして両方を刺激すれば、びくびくと身体を震わせる。殺しきれない声が溢れ、肌はしっとりと汗ばむ。
 嗚咽が混ざっていることに気がついて、慌てた。
「泣いてるの?」
「うぅ」
「ごめん……、僕なんかした?」
「なんで僕ばっかり、こんな……!」
 一方的に翻弄される羞恥に春市はとうとう耐えきれなくなる。経験したことのない快さは身体が震えるほどだというのに縋りつくものは枕しかなく、降谷の表情を窺うことすら叶わない。2度もひとりで果てるものかという意地とぐちゃぐちゃになって、知らないあいだに涙を催していた。
 降谷は静かに指を引き抜くと、縮こまる春市の胸元に腕を回し抱きこんだ。せっかくよろこんでくれたと思ったらすぐに悄気てしまう繊細さは厄介であるはずなのに、降谷のこころに慕情をしかと植え付ける。
「春市ばっかりじゃないよ。僕だってずっと、どきどきしてる……」
 髪や首すじ、それから耳に頬。ちいさな音を立てながら至るところに唇を押し付ける。数えきれないほどになって、やっと笑ってくれた。
「ふ、くすぐったいよ」
「あのさ」
「なに?」
「そろそろ、いい?もう無理……」
「うーん、どうしようかなぁ」
「…………」
「なんて、ね。うん……、いいよ」
 優しい声色がじんと心地よい。あんなに待ち望んでいた許可が下りたというのに、しばらく抱きしめたままでいた。
 恥じらいながらも、このまま向き合った体勢でしたいと訴える春市を降谷が断れるはずもなく、仰向けになっているところに覆い被さる。目元まで覆い隠す長めの前髪を横に流し、ふだんは見ることのないおでこと自分のそれを合わせる。透き通る虹彩がぼやけるほどに近い。
 脚を抱えあげて、張りつめた熱を解したそこに押しあてる。ものの数分前の言葉や態度はどこへやら、いよいよというときになって、降谷のまっすぐすぎる真剣さに春市は怖気づいてしまった。
「あ……っ、待って!」
「待てない……さっきいいよって言ったじゃん」
「言ったけどっ、ちゃんとそうっとしてよ」
「でもそんなにそうっとしたら、入んないよ」
「だから待ってってば……」
「だから待てない」
 のしかかる降谷と、腕を突っ張る春市の攻防戦は意外なひと言で幕を閉じる。
「ぼ、僕がする」
 腕の中から這い出た春市は、もといた位置に降谷が座るように促す。まごつきながらも膝立ちになって腿の上に跨がった。
「降谷くんは動かないでね……」
 降谷のそれに手を添えて、自らゆっくりと腰を落とす。とたんに襲いかかる強い圧迫感と異物感に苦しそうに眉根を寄せる。肩に縋る指先がことごとく白くなっても、春市が逃げることはなかった。熱くて深い吐息が、頬を撫でる。あまりに扇情的な姿に、思い浮かべていた段取りと異なる展開や奪われた主導権に覚えたわずかな不満などいとも簡単に消し飛ぶ。すこしでも苦しさが和らげばと、降谷は強ばる身体にしきりにてのひらをすべらせた。
 それでもつい焦れて腰を掴んで引き寄せようとすれば、咎めるように髪を引っ張られる。
「動いちゃだめ!」
「ごめん……」
 やがてすべてが粘膜に包まれる。目先の快楽よりもまず、繋がっているという事実に意識が眩む。鼓動が寸分の狂いもなく重なって、ひとつになってしまったのではないかという切ない思い違いで頭が埋め尽くされた。縋りついて離れない春市が、耳元で降谷くんと呼ぶ。声がぼやけて、なぜだかひどく遠くに感じる。いまだかつてない距離を確かめるように、等しい力でひしと捕まえて首すじに顔を埋めた。舌を這わせて感じる汗のしょっぱさに、現に返る。
 そうしてかろうじて、この行為の本来の目的を思い出す。
「春市……、動ける?」
「え、僕?」
「だってこの体勢じゃ動きにくい」
「わかった……っ」
 首の腕をほどいてふたたび両手を肩に乗せた。頬を上気させながら、戸惑うようにたどたどしく腰を揺らす。すこし浮かせて、ふたたびぴったりとくっつける動きは不安と疑問に満ちている。まだちゃんと勝手がわかっていないのに、じわりじわりと強くなるはじめての感覚に追いつめられる表情や、繋がっている部分を降谷はじっと見つめる。
「や……っ、あんまり見ないで」
「目の前にいるのにそんなこと言われても……。もうちょっと早く動いてよ」
「そんなの、できない……」
「じゃあ代わって」
 背中を支えて、後ろのシーツに寝かせる。はじめのように覆い被さって、主導権を取り返す。いったん抜かざるおえなかった自身をぐっと沈めるが、さきほどよりもだいぶ慣れた春市のそこは柔らかく降谷を受け止める。見つけたばかりの感じるところに狙いをつけて衝いて揺さぶれば、否定の意味を含まないあたたかい涙がいくつか頬を伝った。内壁がきゅうと狭くなって、絶頂を促す。初めてはやはりいっしょに果てを迎えたいと、ふたりのあいだで震えている春市のものを擦ったり胸の尖りに吸いついたりして、道連れにする。
「ん、あぁっ、降谷くん……!」
「うん、僕も……。春市……っ」
 万有引力を無視して浮きあがる感覚は、海。脳裏に広がるまっさらな青のなか、ふたりは「最後」を垣間見た。

 ふつりと途切れていた細い糸のような意識が急に繋がって、春市ははじけるように身を起こした。視界に飛びこんでくるのは、しましまのブランケットや壁掛け時計、カレンダーなど馴染みのあるものばかりだ。身体の片側に触れているぬくもりも然り。いつもとなんら変わらない降谷の部屋だった。どこよりも落ち着くはずなのに、なぜだかふわふわと腑に落ちない。
 めくれたブランケットからすべりこんだ冷たい空気に、降谷の意識もぼんやりと繋がる。
「あれ……、もう朝?」
「まだ夜中の2時だよ。起こしちゃった?」
「はんぶんだけ……。いいからこっちにおいで」
 降谷の言うとおり、こんな時間に起きる必要はない。起こした身体をごそごそと戻し、おいでと誘われた腕の中に収まる。寝起きの降谷はふだんよりもあたたかい。大きなてのひらがいたわるように、背中や腰を撫でる。
「つらい?だいじょうぶ?」
「つらいって……、べつに。なんでそんなこと、」
 聞くの。言い切る前に、それが愚問であることに気がついた。今までなにを考えていたのだろう。猛スピードで駆けめぐる数時間前の出来事の記憶、その内容に溶けてしまいそうになる。
「〜〜っ(うわ、うわ、うわぁぁ)」
「覚えてる?春市、いったときに気を失っ」
「それ以上言ったら怒る!!」
 目覚めたときに腑に落ちなかったのは、記憶に隙間があったからに違いない。春市が最後に見たのは深い青で、その瞬間ふたりは生まれたままの姿で抱きあっていた。今といえば洗い立てのパジャマ代わりのシャツとスウェットをきっちりと着ている。降谷が余計なことを口走ったお陰で、隙間はきれいに埋まってしまった。なにしろ乱れたベッドを寝られる状態にまで片したり、べたべたになった身体を拭い新しい服を纏わせたりすることができるのは、この空間にたったひとりだけしかいない。
 いつもはマイペースでめんどくさがりの人が露骨な気遣いを見せたりするから、どうしたらいいのかわからない。朝になって明るくなったら、どんな顔をして向き合えばいいのかわからない。かたや降谷は春市がそっぽを向いていてもひしひしと伝わってくるほど、うれしそうにしている。
 ほとほと困り果てた春市は、降谷のしあわせオーラの及ぶ範囲からの脱出を図ったが、はんぶんしか起きていないくせに腕がしっかりと巻きついているやら、オーラが部屋の広さを凌ぐぐらい大きいやらで、それすらも叶わなかった。



おわり

ストーリーが終わらなすぎて、途中で30回ぐらい挫折しかけましたよ…。最後まで飽きずにたどり着いた方に、感謝。2012.08.17(2012.11.25改)

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