∇ 風邪にまつわるノスタルジー 喉の不快感や全身を覆うだるさが気のせいではないと確信したのは学校帰りの電車の中、夕暮れのことだった。病は気からとはよく言ったもので、息を潜めていたそれらの症状は気にしはじめたとたんにスピードと勢いを増して発展し、しまいにはぞくぞくとした悪寒までもたらす。それなりにおいしくできたと思った晩ごはんも食べきれず、春市は自分専用の水色の箸をテーブルに置く。藍色のそれを積極的に動かし、頬を膨らませている対照的な降谷に、あいまいな笑顔を向けた。 「風邪かな。あんまり食欲ないや」 「……そんなに具合悪いの?」 「あ、いや、そういうわけじゃないけど。少しだるいだけだよ」 「だるいってどういう、」 「身体が重いっていうか、そんな感じ」 「へえ。僕病気とかあんまりしたことないから……。無理はしないほうがいいよ」 「病気したことないとかさすがだよね。うん、この後シャワー浴びたらもう寝ようかな」 「皿洗いぐらいなら、できる」 「ありがと。移しちゃったら嫌だから、今日は自分の部屋で寝るね」 「だから僕は病気しない……」 「わかんないでしょ、降谷くんだって一応人間なんだからっ。だめだよ」 こうして毎日、今この瞬間も顔を合わせているというのに、たったひと晩べつべつの空間ですごすことに抵抗してみせるのがくすぐったくて、思わず突っぱねたら余計な単語が入りこんでしまった。春市の心情はおろか、そのことにすら気がつかない降谷は、諦め悪く不服の空気を送ってくる。それを肺いっぱいに吸って、わざとらしくため息をつくふりをする。 横から箸が伸びてくる。 「食べないならこれ欲しい」 「移るからだめだってば!」 油断も隙もない。食事後、律儀にエプロンをつけて、高さの合わないキッチンのシンクで窮屈そうに皿を洗っているところに改めて礼を告げようと近づけばすかさず落ちてくる不意打ちの口づけも、慌てて躱す。 「だめっ」 「さっきから春市だめばっかり……」 「しょうがないじゃん。治ったら、僕からするから」 これ以上むくれないよう、後ろからそっと抱きついて広い背中に頬を寄せる。するとどういうわけだか、だめだだめだと接触を避けている一方で離れがたいと思っている、降谷とおなじレベルのどうしようもないもうひとりの自分が存在を主張してむくれた。ごまかすように、おでこをぐりぐりと押しつける。端から見れば、ただあまえているようにしか映らない。当事者のひとりである降谷ですら、春市がめずらしく与えるきつめの抱擁に手を止めている。 「おやすみ」 最後にそれだけ伝えさっぱりと離れると、足早にキッチンを去る。顔がどうしようもなく火照るのは、ウイルスと戦う身体が熱をあげはじめた証拠か。かたや降谷は泡立つスポンジを手に突っ立ったまま、春市の言葉や仕草、温度を反芻している。 「ん……」 暑苦しさにもがくように意識を浮上させた春市の目覚めは、気持ちのよいものではなかった。半分ほど開いた目に飛びこんでくる歪んだ天井の形がいつもと違って、自分の部屋で寝ていることを朧げに思いだす。汗ばんだ肌にべったりとまとわりつく服が鬱陶しい。喉はひどく乾いている。もはや言い逃れのしようがない、典型的な風邪である。 ここまでまともに風邪をひくのは久しぶりだなぁ。まわりの景色がゆっくりと回っているくらくらした心地に意識を委ねているうちに、現実にピントが合ってくる。今日はたしか平日だ、ならば当然授業がある。一体どのぐらいうなされていたのだろう。今何時。 「……!」 壁に掛かっている時計を確認しようとして顔を横に向けてようやく、部屋にいるのは自分ひとりでないことに気がついた。ダイニングから持ってきた椅子に腰掛ける降谷が枕元でうつらうつらしている。春市の気配を見えないアンテナでキャッチして、鼻ちょうちんはいともたやすくはじける。 時計の針は、一日が後半に差し掛かる時刻を指している。 「あ、起きた。具合は?」 「ちょっと熱っぽいかも……それより学校は?こんなところでなにしてんの」 「朝起きてこないから部屋覗いたら、顔真っ赤で辛そうだったから、学校は休んだ。行ってもどうせ寝てるだけだし」 だからって。言いかけた台詞は、滲む安堵に吐息に溶ける。過度に心配した様子はないのに真摯な降谷は、なにかを思いついたかのように不意に立ち上がる。 「薬買ってある……その前にごはんだっけ。今持ってくる」 ぱたんと閉じた部屋のドアを呆然と見つめる。機敏に動くタイプでも世話を焼くタイプでもない降谷が、自分のために奔走しているらしい事実を突きつけられて、熱に冒されるのとは違う感覚でこころの温度がじわじわと上昇する。と同時に、ほんのいささかひやひやする。今まで食事を用意してもらったことなど一度もなかった。ふたり暮らしがはじまった日にいっしょに立ったキッチンがものの10分で戦場と化して以来、火や包丁を使う作業は封印されたのだ。なにやらとんでもない物が運ばれてきたらどうしよう。想像したら鼻がむずむずした。 熱いだろう額に触れようと伸びたてのひらは、それを覆う冷えピタに阻まれる。春市が眠っているあいだに降谷が貼りつけたのだろう。居たたまれなくなって、布団を頭から被った。 「あれ、また寝ちゃった?」 「お、起きてるよっ」 降谷が運んできた盆には、様々な物が乗っている。白粥のよそってある茶碗、漬け物の乗った小皿、デザートのゼリー、ミネラルウォーターのペットボトル、それからありとあらゆる市販の風邪薬。ルル、パブロン、コンタック、葛根湯まである。若干大げさではあるものの、ちゃんとしている。春市は少しでも疑ったことを恥じた。 身を起こし、差し出された茶碗から、お粥をスプーンで掬って口に運ぶ。 「ん、おいしい。降谷くんほんとは料理できるんだね。ちょっとびっくり」 「いや、これ炊飯器だから」 「そうなんだ?」 「うん。どうしたらわかんなくて、先輩に連絡したらいろいろ教えてくれた」 御幸先輩だ、と思い至り、やっと納得がいく。まともな風邪ひとつひいたことのない降谷がそつなく行き届いた看病をしているのは、いくつもの御幸のアドバイスのお陰に違いないのだった。面倒見がよいとは言いがたいが、それでいてきちんと後輩のことを考えているのだ。呆れながらも、どうすればよいか教えてやったのだろう。出会った当初から、降谷はまったくかわいげのない態度で御幸のことを慕っていた。 「本物のりんごがよかったんだけど、包丁使えないし……。かわりにりんごゼリー買ってきた」 「ありがとう」 「べつに……」 昔の情景が重なる。見慣れた木目を仰ぐ二段ベッドの下の段、うさぎの耳をつけたくし形のりんご、子供用の風邪薬のシロップ、細かい違いを挙げればきりがないのにどこか懐かしいのはきっと、あの頃とこころがおなじだからだ。傍らに腰掛ける降谷の視線の丸さが、若い母親と幼い兄のそれに似ている。なぜか亮介よりも風邪をひくことが多かった。風邪をひくと決まって、母親がこんな風にお粥とりんごを出してくれたのだ。亮介は野球の練習から帰ってくるなり、子供部屋に駆けつける。いつもは貸してくれない本を貸してくれたりするから、熱のせいだけでなくふわふわと浮かれた。 「降谷くんはお腹減ってない?」 「もう食べたから平気。コンビニのだけど」 「そっか。ていうかずっとそこにいてくれなくてもいいよ?もちろん僕は嫌じゃないけど、座ってるだけなんて暇でしょ」 「暇じゃない。……泣かれても困るし」 「え?」 「春市が熱だしたときは、あんまり長い間ひとりにするとぐずるって先輩が」 「それって、」 「ん?あぁ、小湊先輩」 「兄貴!?」 驚いた拍子に飲んでいたミネラルウォーターが気管に入って、ごほごほと咳き込む。他の部員とあまり積極的に言葉を交わさない降谷がいちばん話していたのが、御幸だった。だから先輩と聞いたとき、てっきり御幸だと思いこんでしまったのだ。まさか回想に描いていた当人に連絡が入っていたとは。どうりで懐かしいわけだ。にこにこと必要のない情報まで伝える亮介と、それを真剣に受け止める降谷の様子が目に浮かぶようだった。大きなてのひらに背中を撫でられながら、否定の言葉を考える。 「兄貴になに言われたか知らないけど、そんなの僕が小学校低学年のときの話だよ!」 「今は……?」 「泣かない!」 おちおち風邪もひいていられない。春市は、薬のカプセルをぐい、と飲み込んだ。 おわり よくある風邪ネタ。亮さんは降谷のことを一応認めてはいるけど、なんかあったらいつでも連れ戻す気でいます笑。こうやってときどき降谷くんをからかってるとか。2012.07.30 main . |