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『気に食わない―――ただそれだけだ』
それはとても涼しい日の木陰だった。緑がさざめき合って葉を鳴らす。
その言葉は耳に残っている。
その音は特別残り続けている。
なぜか、理由はわからないがそれが全てといってもいいくらい頭を占めることだった。
そいつは強かった。きっと武術に長けていたんだと思う。
―――風が髪を舞い上げた。昼には溶け込めないほど夜に似た色が木漏れ日を反射し、まるで満天を表す。
そいつの後に立つものは何もなく、奴らはしっぽを巻いて逃げて行く。
『 』
そいつに向かって噛みつくように言った誰か。
それは自分か、いや違う誰かか。…わからないが、苛立った感情に支配されていたのは覚えている。
だが二人残されたそこで、そいつは一言だけ言った。
“ただの通りすがりだ”と。
「―――…、」
光が入ってくる。
また夢を見ていたようだ。半目を開けた微睡みにある体は、がっちりと腕組みと胡坐の状態でいても自分で傾きが分かるくらいに丸くなっている。
「政宗様」
答えるようにした瞬きと共に顔を上げると、色彩のある光景が広がった。
ぼやけていた輪郭が締まり、見知った姿が自分を見つめて。
「そろそろ参りましょう」
口を開く。小十郎だった。少し仮眠を取っていたオレを呼びに来たんだろう。
「―――あぁ、そうだな」
立ち上がる。
いつものことだ。―――うたた寝に夢を見るのもいつものこと。
そしてどんなものだったか、時間が経つにつれ思い出せなくなっていく。
◇―◇―◇―◇
「…―――あ!」
目を大きくして少年が顔を向ける。初めて此処に来た時はまだ緊張した様子だった彼はすっかり慣れたようで、分かりやすいほど嬉しそうな表情をしていた。
「早ぇなお前ら」
その少年、亀助に軽く笑みを向けると彼の側にいた重蔵が申し訳なさそうに目を閉じる。
「独眼竜殿にご足労いただき、誠にかたじけのうござる」
「ったく…オメエらは―――」
「まっ、問題ねぇよ」
眉間を寄せた小十郎の前にずいと出て平然と政宗が答えた。心なしか活き活きして見えたのは小十郎だけではないだろう。
彼はさらに渋い顔で政宗を見るが、最終的には毎度ながらの大きな嘆息を漏らすのみである。
ずっと執務に就いていた政宗が外に出たのには理由があった。離れにある今は使われていない伊達家の屋敷だ。
今ある屋敷とは別にある古い其処が、この雪の重さにとうとう崩れる手前まできていたのだった。
今冬は他国からの民の受け入れで人が住む場所が圧倒的に足りていない。最初の百幾人の受け入れからまたちらほらと国を追われた尾張、近江の民が流れてきていた。故に亀助達が動いている役目にはこの、現存する建物・屋敷を生かすか建て直すかも重要だった。
「アレはオレの屋敷だ。オレが決めるのがnaturalだろ」
「なれど」
「―――さくっと終わらせて戻る。どうせ無人の場所だ」
Humm…こんなんだったか、と適当に懐かしんでgood-byeだ。
そう言って、政宗は軽く手を振り先を歩き出す。
その背中を見つめ黙っていた小十郎。
「あっ待てよー!独眼竜ー!」と条件反射に後を追う亀助をよそに、小十郎と並んで重蔵が顔を伏せる。
「…うちの亀助が誠にかたじけない」
「起きちまったことは仕様がねえさ」
小十郎は目を瞑る。
そもそも政宗が直接出向くような大事になる予定ではなく、その屋敷について元は小十郎と重蔵が話し合っていた。…そして手を加えず、残す方向でいた。
が、政宗を兄のように慕うようになった亀助がいつの間にか話してしまったのだ。
長い室内での務めを避けたがる政宗に亀助は困った形でかみ合ってしまったらしい。
四六時中付いて漸く終わりが見えてきた書物類はまだかかることとなりそうだ。
(…まぁ、それだけじゃねえんだがな)
「左様にすぐ決めてしまわれて良い処なのですか」
まさに、だ。重蔵は勘が鋭い。
政宗を見つめてまだ歩き出そうとしない彼を横目に見て、小十郎も同じく政宗を見つめた。
「寝所の確保は大事。雪に凍えている女子供、お年寄りも落ち着いてきましょう。なれど」
「皆まで言うな」
重蔵の言いたいことは大凡察している。既に話し合っていることだ。伊達の、政宗様がかつて暮らしていた屋敷であることは伝えている。
ただ、
「―――彼処は、」
それだけじゃねえ。
『剣を教える…だと?』
『ぐおっっ!!』
『強く…なるんだ…』
『なめてんじゃねえええッ!!!』
今あるお姿からは図れない多くの跡が残っている、伊達の若い衆なら知らない者も多い―――。
「俺とあの方が初めて会った場所なんだよ」
◇―◇―◇―◇
ざくざくと足音は大きくなる。この速さはきっとあいつだろう、…と思ったところで元気よく亀助が隣に並んできた。
「独眼竜!おれ、さっき隊長のとこに行ってたんだ!」
「Huh?」
思わず聞き返す。いつもは突拍子のない話でも、話したがりな亀助のことだ。今回も予想通りかと思っていたがそうもいかない。
政宗が訝しくするのを見て「へへっ」と笑う亀助はうずうずした様子で続きを話す。
「牡丹と一緒に湯浴みに行く途中だったみたいで、なんか…すごい、その」
「…」
「良かったって思ったんだ。隊長、いつも顔を顰めてたから」
亀助は前を向いて力なく笑う。
急に声を落とした彼を政宗は顔色一つ変えず見下ろしていた。歩みは止めず、ただ言葉を待つ。
「独眼竜のおかげだよ。ありがとう」
声に明るさはないが、亀助ははっきりとそう言葉にする。
アイツの部下はそうだ。
アイツに似て意見はしっかり持っている。そしてアイツとは違い、…ちゃんとそれを言える素直な奴が多い。
(一見まだガキなんだと思っていたが―――)
政宗は長めに一瞬、目を閉じた。
「Ha!らしくねぇぜ亀助。まぁだが、」
ポンと亀助の頭に手をおいて粗雑に撫でる。
「参考がてら受け取っとこうじゃねぇか」
「えー!?」
亀助は「疑ってるだろー!おれ本当にそう思ってるんだぜ!?」と立ち止まって政宗を凝視する。それがやけにまた子供っぽく、それでなくとも興が乗ってきて。
「じゃあ戻ったら、アイツに会うのを楽しみに―――「亀助え!!」
…と、言いかけたが。その大声を聞きつけ、すかさず追いついてきた小十郎達が、…いや中でも小十郎が青筋立てて突っ込んでくる。
「オメエ政宗様に向かってなんて口の利き方してやがる!!」
「ごへッ!」
恒例の拳が亀助の頭に落ちた。あれはかなり痛いだろう。鈍い音とともに、結構な雪を舞わせて亀助が埋まった。
「Ahー…あまり叱ってくれるな。気にしちゃいねえし、何よりお前の雷はよく効くからな」
雪の上にうつ伏せになって、ぴくぴくと痙攣している亀助を見下ろす政宗。
「政宗様…!」と小十郎が譲れない一方、やっと追いついた重蔵が状況を察して亀助を囲うその集団に加わると、盛大なため息とともに頭を抱えた。
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