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「ひぃ、ふぅ、みぃ」
半月が経とうとしていた。他国からの流民が奥州に居を定め、最も寒い月がすぐそこまでやってきている。
雪国の者なら誰もが寒さに凍え、春の訪れをじっと待つ。そんな厳冬の季節だ。
それでも子供なら喜んで外に出たがる時分なのだろう。
そうしてこの子、牡丹も例に違わず足跡を付けるのに必死だった。降っては少しずつ解けてを繰り返す昨今の積もり方には目もくれず、一歩進んではまた、次の一歩に弾むように飛び出す。
「牡丹、走らな―――」
察したんだろう。雪に足を取られて、遅れていたねねがとうとう声を飛ばす。その矢先、ズテンと鈍い音が被さった。顔から雪にぶつかるように牡丹が転んでしまったのだ。
「うえ、ぇえ…」
頑張って手を付いて何とか体を起こしたが、泣きそうになった牡丹にねねが駆け寄っていく。
…そんな小さな二人を遠くから見ていた。この眺めも最近は珍しくない。
牡丹、ねねと屋敷から少し下った先にある村への道を往復する日々。まだ小さい牡丹は籠ってばかりの生活に耐えられないようで、散歩がてら雪の中をぶらぶらするのが日課になっていた。いつも牡丹が先に進み、ねねと共にあの子を見守りながら付いていく。
今日はただ、勢いがつきすぎたらしい。ねねの声が強くなって彼女は私から離れていった。
後をついていただけの足は気付けば止まって、雪の中の母子を黙って見つめている。
「…」
『もう…青琉ったら、急に走るから』
『大丈夫だよ母上、青琉には私がついてるから!』
だって、お姉ちゃんだもん!―――
「…―――、」
目を細めた。
そんなものはもういないと―――重ねてはいけないと分かっているのにまた、幾度も無為な行為に意味を見出そうとしてしまう。
…分かっている。
『―――青琉!』
無意味だと分かっているのに。
「―――お姉ちゃん!」
「!」
こちらに伸びてきた筈の幼い青香の手。それが急に方向を変えて横から引っ張られる。…そう思ったのも錯覚だ。
どうも私は夢を見すぎているらしい。
下を見ると牡丹が袖を掴んで、これでもかというくらい顔を上げていた。届かない目線を私に向けている。
「手、繋ごう」
鼻を赤くして、目に涙を湛えてしゃくりを上げそうに訴えてきたその子は、少しでも異を唱えたら直ぐに泣き出しそうな顔をしていた。本当は泣きたくて泣きたくてしょうがないのだろう。
―――なぜだか、ふっと頬が緩んだ。
「あぁ」
そして不意に思うのだ。
私は、こんな日々の中にいて
…本当に良いのだろうか、と。
◇―◇―◇―◇
牡丹達が奥州に来て半月が経とうとしていた。
その半月の間に奥州では様々に事が起こり、国中が手を焼く事態になっていた。それは毎年といえば毎年のようだが、幾分この冬は猛威を振るっているのだという。
豪雪の所為で国の男達が出払っていたのだ。
青琉の部下たる亀助や重蔵も例外ではなく、昼夜駆り出されて雪掻きや雪による家屋の倒壊に立ち合い、修繕や補強に当たっている。屋敷の主たる小十郎も忙しくしており、もう半月ほど屋敷を留守にしていた。
勿論、政宗がこの屋敷を訪れることもない。
女は働く男達のために飯を作り、寝所を整え、屋内の雑務を取り仕切る毎日を送っていた。そこに身分の差は然程なく、青琉とねねは日中手伝いに入った後、牡丹と出歩くのがお決まりの流れだ。
こうして青琉が牡丹と一緒にいる時間も日に日に増えていき、屋敷でも二人が並んで歩いている様子が日常茶飯事になっていた。
「…えちゃん」
「…」
「お姉ちゃん!」
「!」
目を見開いた。まるで急に体に意識が戻ったような、不自然な感覚に襲われて足を止める。
「聞いてた牡丹の話ー?」
繋いでいた手をぶらぶらと揺らして、反応を確かめてくる牡丹。
まだ状況を理解出来ず、唖然として小さな声の主を見下ろす。
「あ、ああ」
自分でも咄嗟にそう返すのが精一杯だった。
私は、何を放心していたのだろうか。
「お姉ちゃんと湯浴い〜」
機嫌が良くなったのか、嬉しそうな牡丹。
幼子の気分はころころと変わる。それが偶然にも功を奏した。
(そうか。私は牡丹と風呂に向かっているのだったか)
何となく思い出す。
最近は、牡丹といない時の方が少ないのではないかというくらい共に行動していた。
慣れないことをしているから分からなくなったのだろうか。
(…)
…まあいい。考えても埒は明かないだろう。
(―――にしても、)
ぼんやりと空を見上げた。
ねねも人が良すぎる。牡丹と私の二人だけの湯浴みにも何も言わないのだから。
機嫌がすこぶる良い牡丹の足取りを見て青琉は思う。
何度思ったことか分からない。本当に、牡丹が私といる時間を許しすぎているのではないかと、心苦しくなる。
これが一種の信頼から来るものなら―――嬉しい、ものだと。心では思うのだが。まあ…言葉にはし難い。
自分でも後ろめたさを感じるほどすっかり牡丹といる日々に慣れつつあった。
そもそもこちらが何かするでもなく、決まって牡丹が言い出し、後を付いてくるのが原因である。
それに何の意味があるのか。何を期待しているのか。…子供心は今になって解するのがとても難しく、困る。
「ふふふ〜ん」
だがその喜ぶ顔を見ているだけで安心するのも事実だった。
『―――お姉ちゃん!』
あの時は、考えもしなかった。この子が来てしまったのは私の所為だと強く思っていたのに。
『あなた様にお会いできて、私も嬉しかったのです』
知らないうちに救われていたのだろうか。
「お姉ちゃんは、牡丹の事好き?」
顔が固まる。時が止まったと言っても過言ではない。
またお前は何を、と言いたくなる口は下を見て褒美を心待ちにする小動物のような顔に途端言えなくなる。
「―――…っ、」
喉に何かつっかえたかのようにうまく出てこない。こんな事で詰まる私がどうにかしているだけだろうに、無邪気に聞いてくる牡丹には敵わないと、いつも私が負けるのだ。
「牡丹」
―――立ち止まった青琉に牡丹が目を瞬く。青琉はしゃがんで目を合わせ、牡丹の頭に手を置いた。微かに綻んだ顔になると優しくその頭を撫でる。
きょとんとする牡丹。その視線をただただ受け止めながら撫でていたその時。
「隊長―!!」
「!!」
手の動きをぴしりと固めて、風の速さで自分の膝の上に戻す。縁側を走ってくる元気な足音が背後から聞こえてきた。
背中を丸めて見えない後ろをうかがっている青琉は気もそぞろな様子で、牡丹が目をぱちくりさせる。しかし彼女は新しい者の登場に直ぐ目を持っていかれた。
「此処にいたー、探しましたよ!」
声の主は後ろで止まり、急に居ずまいを正して目の上に手傘を作る。
「亀助、ただいま戻りました!!」
「…」
青琉は顰め面で、のそりと彼を一瞥した。
全く、予想を反してやってくる嵐とはコイツの事を言うのではないかと一気に疲弊した気分だ。
だが互いの目は交わることなく先に亀助が青琉に隠れた小さな影を発見する。
「ってあれ?」
どっかいくんですか?と。呑気な声色に、青琉は大きな溜息を零した。
そこですかさず牡丹が喜びを漲らせて言う。
「お姉ちゃんは牡丹と湯浴みするの!」
「おーそうなのか!それはよかっ―――」
亀助の血相が変わる。止めどなく喋っていた口が中途半端に引き攣った頬とともに強張り、青琉を見下ろしている。明らかにまずいと自覚したのは、青琉の凄まじく険悪な眼差しが刺さってきたからだった。
はぁ、と残滓のような息を吐き、青琉は立ち上がる。
「…久方ぶりに戻ったかと思えば、相変わらずお前は…」
「へへー…、」
はにかむ理由が一切分からない青琉が渋い顔をして見つめるも彼は意にも介さない。頭をかいてごまかすあたり、まだまだ此奴も子供なんだったと妙に納得した。
「ちょっと落ち着いたんで戻ってきました」
照れを隠し切れないまま目を上げて青琉を見る亀助。
「また夕刻にはあっちに戻ります。今度のは独眼竜も立ち会うみたいで―――」
「…」
そこまで聞いて青琉はゆらりと俯いた。亀助がはっとしたのは、青琉の目が髪に隠れて重い沈黙を醸し始めたからだ。
「…そうか」
「た、隊長…」
狼狽して手がてんやわんやと行場なく動き回っていた亀助は、落ち着きを取り戻すと姿勢を正した。
「すいません」
「何がだ?」
声と共に髪の間から覗いた上目の眼力に押し負けて、
「あ、いや…」
そこから先が阻まれる。
肝心の牡丹は飽いたのか、近くの縁側に座って雪いじりをしており、こちらを見向きもしない。亀助は言いようのない気まずさに目眩を感じた。
「亀助」
「は、はいぃ!!」
亀助の取り乱し様に青琉が眉根を深める。けれどもそれは青琉にとって懐疑混じりの呆れのようなものだった。
すんと顔つきを改めると、
「私達は行く。お前は中で茶でも飲んでいけ」
「は、はい!ありがとうございます」
何もなかったかのように横目に亀助とすれ違いがてら「牡丹」と呼びつける。気付いた牡丹は待ってましたとばかりに目を輝かせて青琉を向くと、鉄砲玉のごとく駆け戻った。
◇―◇―◇―◇
「―――またねー!お兄ちゃん」と手を振る牡丹に振り返して背を向ける亀助。
ああ、まるで泡沫の夢のようだ。
―――両手で掬い上げて、手の中の水鏡に映る自分を見つめる。
気泡が中で膨らんで、表面に出てくると弾ける一瞬。蒸気が一帯を霞ませている風呂の中で、青琉は思案に明け暮れていた。
こんなこと、長くは続かないと知っている。
『そんな驚く事かよ。お前、オレに用があって此処に来たんだろ』
『それは―――』
(私が言わねば、先に進めないと)
向こうから来ないのをいいことに、このひと時の安楽を享受する甘さに私はかまけていると言ってもいいだろう。
私は、今では当たり前のようなこの日々にいつか別れを告げなければならない。それが私の選んだ、
『私の、あの時の気持ちが分かるのッッ!?』
青香と向き合うということなのだから。
―――閉じていた目をばちっと開ける。
「ばあっ!」
「んな!?」
しかし想像のはるか斜め上をこられて、青琉の表情は一変する。
忽ち眼界は、元気はつらつな童子の顔が広がり目を剥いた。呆気に取られて動けずにその子を見つめる。
さっきまで向こうで泳ぐ真似をして遊んでいた牡丹が驚かしてきたのだ。
「………ぉま、牡丹!」
「えへへ」
ふよふよと青琉の前で揺れ動く牡丹。温かく優しい波が伝わってくる。
やり場のない羞恥で歯を噛み締めていた青琉だったが、自然と苦笑に変わった。
―――くいくいと手振りして。牡丹をそっと腕の中に促し包み込む。すると応えるように甘えて牡丹も寄り掛かってくれた。
(守りたい。大事な者達を、)
「あっついー」と音を上げる牡丹。そうだったと、すぐその手を引いて脱衣場に向かうと待っていたねねが微笑んでくる。
―――守りたい。
(私に先を与えてくれた者達を)
≪…ちゃぷん≫
私の知らない私が、
『あオ、…か』
(誰かを傷つける前に)
―――霧の中で一人、湯を掻き進み身を沈める。
『青香の事。―――お前達は知りたいんだろう』
あの時、無知でいることをやめると決めた。
あれから踏み出せなかった迷いに、今こそ終止符を打つ時なのだろう。
(…あの男は、独眼竜は)
『―――責任もって、受け止めてやるよ』
私の知らない私でも、
(…信じて手を取ってくれるだろうか―――)
ざぱんっと立ち上がった勢いで、体を覆っていた水が弾けて滝のように落ちる。
脇に掛けていた身拭を軽く体に巻き、桶に手巾を入れて牡丹がいる竹柵の向こうに向かった。入口から姿を見せるとねねもいて、丁度牡丹は着替え終えたようだ。
「…大丈夫か?」
「はい」
「お姉ちゃん、やっと来たぁ!」
「…」
安心して目を細めたその時だった。
ズキン
瞠目する一瞬。大きな音が、二三度響いて桶が転がる。
がくんと膝を付いて蹲り、頭を押さえた。
「青琉様!?」
「ぐっ……!」
すぐ様近寄ってきたねねを少し向けた目の片隅に映しながら、ぼんやりと定まらなくなっていく。見えるものが急激にぶれていく。
『―――なんだオマエッ…』
『今日が何の日か―――』
『―――…ッ、もう一度』
今という色彩の世界から色を奪って、白黒の光景が脳裏にちらつく。
(私は…)
『―――大事にしろよ』
・・・・・・
これを知って―――…。
それが限界だった。
全ての感覚が強制的に消えていく。青琉の視界は必至なねねを置いて反転し、重い瞼の裏に閉じられた。
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