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【血塗れの望月】
…なるほどな、と理解した。小十郎に言われなければ、オレは直接アイツに聞いていたかもしれない。
『あの女は望月出雲守―――うちの里の筆頭だった忍の娘みたいでね』
経緯は聞いた。武田でオレがいねぇあの時、猿飛が青琉に問い詰めていたのだと。
奥州に戻る前に小十郎が青琉と話す猿飛を見つけ、再度聞いたらそんなことを言ったらしい。
小十郎には何で黙ってたと言おうともしたが、まあ本来は青琉から聞く話だ。
小十郎に言うのはお門違いだろう。
忍の有名どころは知らねえが、その姓が【同じ】ものだと考えれば
『私はもう一度見たいのですよ。―――血塗れの望月を』
繋がってくる。そんな大事な話だ。
全てを理解したわけではない。だがまず言えるのは明智がアイツの相当な過去を知っているということ。アイツに入れ込むのにはそうでなくては話が通じない。
それはオレが知らない、―――青琉が隠している様々なことなのは間違いないだろう。
望月という名もその一つ。
『本当は一族に生まれたのでもなく…拾われて育ててもらい、…かと言って、恩を返せたわけでも……ない。
この治癒力と見目形の所為で、…青香ごと居場所を…壊した』
出かかったあの時の言葉の中にもきっとある。but、それはアイツの口から―――その時が来るまでは、時が許す限りオレは待つつもりだった。
だから言わずにいた。
しかし流れ着いた民のこともある。早いうちにという小十郎の判断も間違っちゃいねぇ。
『織田にいる私に、戦い方を教えたのは光秀だ』
武田との会合で青琉が言った話を思い出す。
自ら勧んで教えを請うたわけじゃないのは以前のアイツから分かる。
なら何が明智と青琉―――望月を繋げるのか。
何が青琉と青香に確執を生んだのか―――。
「…分からねぇ」
閉目し小さく息を吐いた。
頭脳戦は柄ではない。いっそ小十郎にもあの時の青琉のことを話してしまえば策は浮かんでくるのかもしれないが。
(……―――、)
それはprideが許さない―――そんな意地が黙り込んだ政宗の視線を斜め下に落とした。
しかしすぐに腰を上げる。
既に時は亥の刻。寝静まっている者も多いが、生憎の政宗は漸く今日の分が片付きこれから寝所に向かうところである。
今日は早かった。
アイツと久しぶりに会い、検問に立ち会い、いつも通り書にも向かい合って―――平生の過ごし方ではない。…というと小十郎にまた小言を言われそうだが。
「政宗様」
丁度襖の外からその声が聞こえたのは間が良すぎるだろう。頃合いとみて小十郎が戻ってきたのだと踏んだ。
「Ahー、今行く」
適当に返して、散らかっている部屋で足場を見つけながら向かう。
『お前、こんなところで何してる』
『!!』
不意に思い出し襖の前で足を止めた。
『なっ……』
なぜ今まで抜け落ちていたのか。その記憶が何よりも知りたい答えに直結しているであろうことは明白だというのに。
話したいことがあるのだと何となく察していた。しかし何にそんなに驚いているのかは分からなかった。今思えばあの鉄の飾りを咄嗟に隠したアイツは、“そのため”に来たんだろうと。
(…そういうことかよ)
気付いた時にはまた、
「…政宗様?」
timingを逃したんだと理解する。
―――外から衣擦れの音が聞こえた。
「Ah、今行く」
小十郎に動かれる前に襖を開けた。一歩出てみると寒空に吹く風は冷たいが心地良い。
頭を冷やすにはちょうどいい涼しさだ。
「お体が冷えます。参りましょう」
聞こえた声に面を向ける。立ち上がって促す小十郎は見慣れた真顔で自分を見ていた。
「…OK」と返して横を通り過ぎるといつも通り後を付いてくる。
曲がり角とともに広がってくる正面には高くなっていく月があり、宵にぽつりと浮かんでいた。四季外れの朧月だ。
「…」
じっと睨み付ける。
血塗れの望月。赤い月。
わざわざ別に称したのは意味があるのか、ただの戯れか。考えるも、今の政宗の頭には浮かんでこなかった。
◇―◇―◇―◇
一切の景色が黒に沈む。
ただ一つ残っていたのは大きな赤い月だった。
赤い光に縁どられて輪郭だけをぼんやりと浮かび上がらせている。
音もない。
風もない。
その景観が急に、
≪―――ドクン≫
と脈打って。
【≪―――青琉≫】
「ッッッ!!!」
がばっと体を起こした。
「はぁっ…はぁっ…はぁ…」
呼吸が早く、止まらない。乱れていた襦袢の胸元をくっと引っ張り、そのまま心の臓の上で動かせずにいた。そこは、どくんどくんと落ち着きなく拍動している。
夜中で寒い筈だというのに、信じられないほど火照って汗を掻いていた。下ろしている髪が肌に張り付いて気持ちが悪い。
こんな日は久しぶりで、
(―――最低、だ)
小さく歯噛みして片方に髪を寄せ流した。肩の上をするんと落ちる。
開けた視野の方に顔を寝かせると、牡丹母子が静かに肩を上下させていた。
起こさずにいられたらしい。
ごそりと布団を出て、ゆらり立ち上がる。とんとんと畳の上を裸足で歩き、辿り着いた襖を少しだけ開けると外に出て後ろ手に閉めた。
◇―◇―◇―◇
「…―――、」
そよ風が髪をさらった。
座っている縁側の木の冷たさにも馴染んできた頃、青琉はただ石像のようにそこに佇んでいた。
雪の寒さを忘れるくらい体温は風に撒かれていくも気にもならない。
『青琉』
【赤い月】のあの日。私はやはり、あの日を一瞬たりとも忘れることが出来ないようだ。忘れられない。
決まって少し気を緩めたらこうだ。
重なって見える。夢に見る。
刻んで消すなとあの日の炎が燃え盛る。
私の罪は、消えない。
『お前が私の前に現れて!!全てがおかしくなった!!!』
…私を許してくれとは言わない。
ああ、それは私のせいだ。
私が…いたせいだ。
ただ、
『…?―――わあ…!簪だぁ…!!』
―――それでも大事な思い出を、優しい記憶を残していたいと思うのは
(私の不心得、なんだろうか)
目を閉じる間際まで伏せ、震える目蓋を抱えた片膝の中に埋める。簪の名残である青い玉が握っている手の中できらきらと輝いていた。
朧月が晴れてきて、月明かりが首にかけている鉄飾りを照らす。
「どうか…されたのですか」
「!」
顔を上げて勢いよく振り向いた。声をかけられるなど到底想像し得ず、声も出ない。
開いた襖の中から恐る恐る眺めてきていたのは牡丹の母、ねねだった。
「…いや、眠れなかっただけだ」
何とか冷静を装ってそう返す。
再び外に戻った青琉の横顔を映すねねの目が、まるで何かを感じ取ったかのように
揺れるもおもむろに閉じられた。
「なれどお体が冷えまする」
「私のことは別にいい。お前こそ風邪を引いたら牡丹が―――」
ぱふりと体に何かが掛かった。
言いかけた青琉の声を途切れさせるそれは温かく、温もりの残った羽織。驚いて振り返ると春のような微笑みとかち合う。
「牡丹は温かくしております。わたくしもこの通り、」
と肩の羽織り物を一瞥して「温かいですので」と付け加えた。そして、
「お召し下さいませ」
包み込むようにそっと告げた。
◇―◇―◇―◇
「…―――出過ぎた真似をお許し下さい」
一人分離れて正座をしていたねねがやっと口を開いた。
彼女が来たといって青琉が喋るわけでもなく、冷え込む寒さに黙々とした人影がもう一
つ増えただけだったが、その詫び言で再び温度を取り戻していく。
「いや、助…かった」
それで同じく声にできた青琉だったが、どう返せばいいのかわからず咄嗟に肩の羽織を内に引っ張り込んだ。謝るべきは自分の方だと思いながら、彼女にそれを打ち明けてしまったらそれこそもう立つ瀬がない。そんな薄氷のような矜持が時折吹き付ける疾風に怯えながら耐え忍んでいた。
ねねはこんな状況にも慣れているようで、見守るようなどこか悲しいような微笑を青琉に向けて聞いている。少しだけその色を愛嬌に強めて、にっこりと笑うとまた雪の庭に苦笑を零した。
「どうにも昔から世話焼きな質でございまして、誰彼構わず節介を焼いてしまうのです。
…身内にもよく叱られておりました」
「…そう、なのか」
そうなのか。
すとんと胸に落ちた。それが彼女の気質なのだろう。異論はない。
この日だけでそう見図れるほどそんな言葉がぴったりだった。その優しさを嫌とは思わない。
対照的に自分は相変わらず気の利いた言葉が浮かばなかった。
こんなことを言いたいわけじゃない。本当はこんな返しをしたいとは思っていないのに。
―――ねねには見えない反対側の手をぎゅっと握った。
「先ほどは重い話を、失礼いたしました」
ねねはただ真っ直ぐと一帯の雪景色を見つめて言う。
「気付けば話しすぎて…お気を煩わせてしまいましたね」
「そんなことはないっ…!」
すかさず語気を強めていた。今の自分を見て彼女が自責だと思っているのなら決してそうではない。そう伝えたかったのだ。
驚いたのか、ねねが目を丸くして青琉を見つめる。
まなこは少しずつ細くなり、やがて泣きそうなまで柔らかさを取り戻した顔で笑いかけてきた。
「青琉様はお優しいのですね」
優しい?
(私が?)
『アンタは優しい』
―――そういえば前にもそんなことを独眼竜が言っていた。何を指して言っているのか、今だ私には皆目見当つかない、のだが…。
「い、いや。急にすまない」
なぜか疚しくなって目を逸らす羽目になる。
すると、ねねはまたふわりと笑みを寄こした。まるで陽だまりのように、見ている者の心を温めてくれる表情。
彼女は庭に顔を戻して口を開く。
「…牡丹があなた様の話をしておりました」
「…!」
喉まで出かかった揺らぎを抑えて、ねねを側目に見た。
「あなた様のように人を守りたいと。強くなってお武家様に仕えて」
私にお米をたくさん食べさせたいなどと申しておりました、と言う。
ねねは変わらず雪景色を遠望し仄かに顔を綻ばせていた。きらきらと輝く庭はまるで雪化粧のようで、淡い月明かりを反射して瞳にたゆたう。
青琉が口を開こうとしたその時、急にねねが顔を向けて。
「奥州(ここ)にきたのは、あなた様にお会いしたかったからなのですよ」
と。言ってくる。
思いも及ばず、言葉に詰まり目だけ白黒して呆けてしまう。そんな青琉を見て平静になったのか、ねねはまた申し訳なさそうに苦笑いを地面に遣った。
「牡丹があなた様に会いたいとずっと申していたのです」
保護して下さった武田信玄様には真に申し訳なきことをしてしまいました。
なれど事情をお伝えしましたら、分かって下さったのです。
「伊達政宗様が受け入れて下さるかは分かりませんでしたが、その時は戻ってきてもいいとの話もあり頭が上がりませんでした」
「…そうか」
出かかった言葉を引っ込めてまたそんな言葉を出していた。牡丹の話は本当に夢にも思わないことで、正直この感情を嬉しさと言っていいのか分からない。ただ少なくともそれは悲しさではなく、胸がきゅうっと締め付けられて体温を感じる辺り、私はその言葉に救われているのだろうか。
「改めて私達を受け入れて下さりありがとうございます」
ねねは微笑みを再び向けてくる。ただ静かに咲く、何十にも連なる花々のような笑顔だった。それを向けられるには忍びないほど私は何もしていないというのに。
「…言うなら独眼竜と片倉に言ってくれ。私は何もしていない」
だから、
「だから…」
だから。
何度も心で繰り返し、伝えるには気が引けるその続きを汲み取ってほしかったのか。無意識にそこで言葉を切ってしまった己を恨んだ。
「…」
「…」
また訪れてしまった静けさ。もう夜も深い。月はまだそこに薄ら光っているが、そろそろ差し障りのない言葉を見つけるのも潮時だ。
これ以上は、我を見せてしまう。晒してしまう。そう心が震えていた。
そんな葛藤の内にある青琉の心を救ったのもまた、
「―――はい」
ねねの一言だった。
「伊達政宗様と片倉様にも何れお伝えいたします。なれど、…あなた様にお会いできて、私も嬉しかったのです。
―――牡丹があなた様を慕うのがよく分かります」
目蓋を閉じて、
「この縁に感謝を」
軽く低頭すると、そのまま後ろに下がる。
「先に戻ります。青琉様もお早くお休みなされませ」
柔い細目をその背に届けて、すっと襖の向こうに消えた。
「…―――あぁ」
風がそよいだ。前髪が隠す目を、さわさわと波のように撫でる。
声はとうに耐え切れなくなっていたらしい。消え入るような音に少し力が入って掠れた。
震えた肩。込み上げてきたしゃくりを噛み締めた横で、涙が伝った。
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