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「…」
「…」
ただ向くがままに進んでいた。それが数百歩にも、数千歩にも感じる長い時の中で四十雀の控えめな囀りだけが聞こえる。
独眼竜に【私の部屋で】と言われたのは別にいい。だが、こちらから切り出すような話上手でもないし、あちらも来たばかりの身で話しづらいだろう。
この沈黙は必然でどうしようもなく、部屋へ着くまでの間、何もなかったかのように案内するしかなかった。
…それが当たり前に予想し得たあの親子との再会―――この形で果たされることとなった意味を聞かずもがな、理解できた私のせめてもの贖いだった。
「ねえねえ」
しかしその声で長かった無言は終わる。
「お姉ちゃんはずっとここに住んでるの?」
牡丹だった。ずっと大人しく母に手を引かれ、一生懸命見上げながら―――足を速らせながら変わらぬ声色で聞いてくる。すると牡丹の母も言葉を見つけたのか「牡丹っ」と声を投げて小さく頭を下げてきた。
「不躾に申し訳ありませぬ」
「いや、…いい」
少しだけ顔を後ろに向けて返す。それからはどうしてか、言葉を見つけることができて。
「もう少しで部屋に着く。あと少しだけ我慢してくれ」
我ながら素っ気ないものだと思いつつも少しはましなことを言えた。そんな気がする。
私の返しに牡丹がすかさず言葉にした。
「あともう少しっ!」
「はいはい、そうね」
場が和む。それに安堵して牡丹の問いかけに答え忘れた自分がいたのは、
「―――着いたぞ」
秘密だ。
◇―◇―◇―◇
きゃっきゃと雪のない軒下で鞠をつく牡丹が見える。
雪は止んでいて少し日も傾き始める時分。今日は澄んで綺麗な黄金色の夕暮れだった。
「青琉様」
振り返った。襖の向こうの縁側から丁度戻ってきた牡丹の母が入ってくる。
「僭越ながらお茶を入れて参りました」
「黙って座っていて、いいのだぞ」
咄嗟に口にしていた。
まだ着いて間もない。此処に来るまでも雪の中長い道のりだったろう。
検問もあり、すぐ居住まいを分け振られ、落ち着く暇もなく漸く部屋へと着いたのだから。
しかし牡丹の母は首を振る。
「私たちは掛かり者の身。少しでもお力にならねば気が休まらないというものです」
「…」
牡丹の母は盆にあった湯のみを青琉の前に置きながらそう言い終える。
知らず目を細めていた。私はなんて浅はかだったのだろう。そうあるのは寧ろ私が先である筈なのだと気付かされる。
しかし違和感に気付いて青琉は顔を上げた。
「お前達の茶は?」
盆には三つ、湯のみがあるにも関わらず色が出ているのは自分の前に置かれたものだけだった。
優しい表情に苦笑を混ぜて、残り二つの内一つは牡丹の母の側に置かれる。
「気が引けますので、私達はこちらで」
「…」
また目を細めていた。残り一つに同じく手を伸ばした牡丹の母。しかし届く前に、すっと青琉が湯のみを掴む。
「!」
「丁度、白湯が飲みたかったところだ」
代わりに自分のところにあった湯のみを盆に戻して、白湯の湯のみを手元に置いた。
「茶はお前達が飲め」
牡丹の母は目を丸くして青琉を見つめる。そこに「母上〜」と草履を脱いで、部屋に上がってくる牡丹の声が遠く聞こえてくる。
静かに柔らかく、牡丹の母は目を緩めた。
「ありがとうございます」
◇―◇―◇―◇
水面に映る自分の顔。ゆらゆらと揺れるそれと、茶柱が立っている中を、見たことのない牡丹は夢中になって覗き込んでいた。
縁側に座って足をぶらぶらしているのがその証拠だろう。
筆で塗った統一感のない模様の湯のみの、少しごつごつした触り心地も新鮮なようで、くるくると両手で回しながら≪ずずず≫と音を立てて飲んでいる。
「―――何故伊達に?」
部屋の真ん中で互いの湯のみを口に運びながら青琉が聞いた。牡丹の母が丁度、湯のみを正面に戻したところで一瞬の間ができる。
「…私達は元々近江の小さな町に住んでおりました」
人が少なく、女子供ばかりの町でした。なれど近江は浅井長政様がお治め下さっている地。
「その頃は尾張の織田信長に焼き払われた村や町がそこかしこに点在しておりました故、その妹君を娶られる長政様の治下にいれば大事ないと思っておりました」
「…」
けれど。
彼女は首をゆっくりと左右に振った。
「時は移ろいゆくもの。他の大きな町は加賀の前田様や三河の徳川様の保護がいち早くございましたが、幾千万もいるのです」
伏せていた目線を上げて、向こうで茶を啜る牡丹に向けた。
「斯様に小さき子がいますと順を待つのも途方なく、幸いにも甲斐で保護をして下さるとのお話がございまして武田様にお邪魔しておりました」
「…そうか」
その言葉しか出なかった、…言えなかった。思った通り牡丹達も。
『―――知ったように言わないで!!』
【私の】被害者なのだ。
「母上ー!」
床にある手をぎゅっと握りかけたその時、牡丹が走ってくる。咄嗟に手の力を抜いた。
両手で湯のみをしっかり掴んで「これ、あと母上にあげるー!お姉ちゃんにも!」と言うと、少し残っている湯のみを母に渡してまた軒下に向かう。
「牡丹!…もう、困った子」
「―――私も、だ」
目を瞬かせ、牡丹の母が顔を向けた。すると力を抜いた穏やかな表情で外を見つめる青琉がいた。その顔は笑ってはいないが、牡丹を見つめて慈しむように見える。
「私も近江の出だ」
そう言っていた。
後は口をついて自然と出ていく。
「あの国は戦が絶えん。昔から、…織田が名を馳せる前から」
『青琉、留守は任せたぞ』
『父上と青香が大事なく戻ってきますよう、母上と祈りましょう』
『―――、痛いけど大丈夫。戦だもん、生き残らなきゃ』
―――血と涙で濡れている。
「―――青琉様も」
「!」
その声に、消しかけていた自分以外の認識がまた戻って声の主を見つめ返した。
「同じ近江の出なのですね。…少し、安心いたしました」
まるで溶けてしまいそうな温かみのある微笑みを向けて牡丹の母が佇んでいた。ゆったりとした所作、その笑い方はまるで―――。
何故か己の事を、遠い遠い過去の話を―――長く口にしてこなかったその話を言葉にしてしまっていたのは、
『起きたらお食べ』
母上に似ていたからかもしれない。
「あー!母上―!」
再び意識は今に戻される。急な大声は空を指して跳ねていた牡丹だった。
「お月様、まん丸!」
牡丹は青琉達を見て、外を見て忙しく喜んでいる。
夜―――もうそんな頃合いかと、白む紺色の空が目に映った。まだ部屋に戻って二、三刻も経っただろうか。今日は時が経つのが早く感じる。
「牡丹、そろそろこちらにいらっしゃい」と呼んだ母に、鞠を持って戻ってきた牡丹がその懐にちょこんと寄りかかった。
すると「丸いお月様はね―――」と腕の中の牡丹をあやしながら、彼女は続ける。
「“望月”というのよ」
優しく聞こえたその四つの音が、
「―――…」
目を閉じた夢心地の中でゆらゆらと響いて消えていった。
◇―◇―◇―◇
「…」
雲一つない満月。それを小十郎も縁側から見上げていた。長い一日が終わりに向かうのをその夜空を見て思う。
そして一時の刹那。
静かに目を閉じ、飲み込むようにその場に留まると―――空に背を向け、まだ明かりが消えない執務部屋に戻っていった。
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