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『てっきり俺はあんたが父―――、望月出雲守が捨てた名を出すまいとしているのかと思ってた』



その名を再び自分でも口にする事があるとは思わなかった。

昔から戦の度、駆り出される父上や青香、仲間と同じように日々武術を極めていた。ある日父上から明かされたのだ、望月という名を持った一門だったのだと。
私の力を認めて教えてくれた誇りと共に、心から感謝した。
私を身内同然に育てて受け入れてくれた―――望月の名に、父上は“もう捨てた”と苦笑した名に。恥じぬ働きを、父上や青香に並ぶ働きをするのが私の夢だった。

それなのに、



『見る……な…』



私が壊した。私が狂わせた。
私を受け入れてくれたばかりに、
―――望月は潰えた。

私のような他所者がその名を語れるなど決してない。



「…」



青香と中途半端な気持ちで向き合うなど、決してできない。

縁側を道伝いに歩き続ける青琉。
冷えたそよ風が波の引くように消えるとふと足を止めて、横の中庭を見上げた。
そこには紅く色づく葉が重なり合う大きな紅葉の木がある。青琉がその紅と黄金の濃淡を枯茶の瞳に浮かべていた時。突然風が強くなって、



「…っ―――、」



目を細めた。

舞い上がる木の葉、奏でる秋の音。その一枚が青琉の足元に落ち、しゃがんで手に取る。



『…―――青琉、これはね』



紅葉と言って、今の時期とても綺麗な色になるのよ―――…




―――蘇る。紅葉の木の側で振り返った青香が両手に溜めた葉を私に差し出して微笑む。
そんな残像が向こうの紅葉の下に見えた、



「…―――お姉ちゃん?」

「!」




…気がした。しかし現実に引き戻すのは幼い少女の声。
驚いて振り向いた。すると視線の先には見覚えの顔がある。
松永襲撃の時、鞠を持って話しかけてきた少女だった。



「あっ、やっぱり。あの時のお姉ちゃんだ!」



少女はあの時と同じ満面な笑みに目を緩めて、とたとたと近付いてくる。



「お姉ちゃん凄かったんでしょ!みんな守ったって!」



身を乗り出して青琉を見上げる少女。その目はきらきらと輝いていて、青琉をまるで【憧れ】と仰ぐように興奮気味である。



『凄いよ青香っ!この前の戦で大活躍したって!』



「……、」



目を細めた。同じだ。まるで幼い頃の自分を見ているようで。
―――【憧れ】を抱いていた自分を見ているようで。

青琉は片膝を立ててしゃがむと、目を丸くしてこちらを見る少女の頭にぽんと手を乗せる。その目は優しく、ほんの少しだけ頬を緩めて。



「…あぁ」



とだけ答えた。そうすると少女も大きな目に再び淡い光を揺らして、にっこりと花咲くような笑顔を向ける。
その時「牡丹ー、牡丹ー!」と向こうから声が聞こえてきて「あ、母上っ」と少女が振り向く。姿は見えないが、牡丹―――この少女を探している母だろう。じきに此処にやってくる。

青琉は立ち上がった。すると気付いた牡丹が青琉を見る。



「行け」



静かに諭した言葉が牡丹に届いた。牡丹は言われるまま、こくんと大きく頷くと元来た道をその小さい足で精一杯走る。曲がる手前まで行くと不意に青琉を振り返って。



「ばいばーい!お姉ちゃん!」



元気に手を振り、角に消えた。



「…」



青琉は閉じそうなくらい柔らかな目を送り、佇んでいる。その頬を穏やかな横風に吹かれた髪が時を惜しむように撫でた。



◇―◇―◇―◇



日が高く強くなってくる。障子を透けて混じりけのない白が畳に落ちていた。その障子を脇にして、部屋は塀で仕切られた中庭へと大きく開けている。
その風景の中で一人、縁側の柱に背中を倒して座っているのは政宗だった。
片足を曲げてその上に同じ側の手を伸ばし乗せている。



『溺れない事だ…卿に蔓延る闇は、直ぐそこまで迫っている』



引っかかっていた。松永が残した言葉の意味。



『堕ちて堕ちて開花した徒花に…対抗できるものか』



(―――徒花、)



「政宗様」



目を鋭くした政宗に呼び声がかかり、ひと度声の方へと体を捻る。縁側の向こうから軽い足音で戻ってきた小十郎だった。
いつもの強面な顔が眉間に深い谷を作る。



「…どうかなさいましたか?」

「いや、―――何でもねぇ」



小十郎から目を離しつつ再び前を向く。政宗のひと間の沈黙をしっかり開いた目で眺め、また歩みを再開して部屋の端―――政宗の後ろに人二人分ほど空けて座った。



「どうだ?」



と、言外の内容など当たり前に今度は政宗が聞いた。すると小十郎は片眉に亀裂を作り、再度気難しい顔になる。



「大方治りはしましたが、まだまだ。真剣の最中、他の事を考えているようでは先が思いやられます」

「…ほお。お前相手に余裕を持てるようになったか」



口元に笑みの戻った政宗に対し、小十郎は眉間をますます深めるばかりだった。
下に曲がっていくその顔は二の句が告げられない小十郎の心の内を十分に表している。



「全くあなたは………、」



言いたい事は沢山ある小十郎が強く言えないのには訳があった。

小十郎は一度政宗の命に背き、【松永のもとに赴いた自分の代わりに青琉を守れ】という言伝を破った。
小十郎はその事で政宗に誅罰を願い出、そんな小十郎にどうしたものかと口を閉じていた彼がある日意気揚々と言い出したである。



『青琉との手合わせ、お前に任せた。―――簡単なもんだろ?』



最後、とても悪い顔をした彼を小十郎は今でも覚えている。

そもそも青琉が【手合わせの相手を】と政宗に乞ったのが始まりだ。
普通に立って歩けるまでになった彼女が、ずっと屋敷にいるのも手持ち無沙汰で考え付いたのだろうと双方察していた。
しかし途中までは望み通り政宗が相手をする予定だったのにもかかわらず、どうせならと考えた政宗の悪知恵である。
こうして武田に身を預けている間、小十郎が青琉の世話係も兼任する事となったのだった。



「俺が直接アイツと打ち合いをするよりお前も安心だろ。俺ばかりアイツの剣筋を知ってちゃ、これからの伊達のactionに関わるしな」

「…」



もう言うまいと小十郎は殆ど聞き流している。青琉は部下を救った今回の件で少しは見直したが、敵としてではなく剣筋を見極める機会が武田にいる間に訪れるとは想像できなかった己の甘さを見た次第だった。



「…そろそろ本題に参りましょう」



小十郎は曇った眉と閉じた目で表していた諦観から改まって、色を正す。開いた目には隙が無くこの先の冗談を一蹴する気配がはっきりしていた。



「what?」

「松永久秀の言葉を考えておられたのでしょう?」



「なっ」と目を見開いて小十郎に半身捻った政宗。すぐ長い溜息を鼻から出して、中庭に向き直る。



「何で分かった」

「長年の勘です」



そう返答を受け、顔は下げ気味の、舌打ち手前の表情で少しの間言葉を閉ざしていた。しかしその顔を上げる。



「お前は、いたと思うか?」



『独眼竜―――伊達政宗』



もっとあなたを私に見せて?




妖しく笑った同じ顔の女が浮かぶ。その名を聞く事は今回なかった。
だがどうしてもちらついた。
仕掛けてくるなら向こうからだと確信しているからこそ、この事態も裏での繋がりを疑っていた。

政宗は真っ直ぐ正面を見つめ続ける。返答があるまで二言するつもりはなく、即答のない小十郎を黙って待っていた。
対する小十郎は目を瞑っている。その目を少し開いて、



「…いるとなれば、」



と今度は顔を上げた。



「魔王の妹が現れたのも偶然ではない。―――そんな気がいたします」

「…」



青琉の前に現れたという市。行方知れずだった彼女があの時、あの場所にいたのを偶々だと片付けてしまうには尚早だと思っていた。
理由は分からない。
実際のところも分からない。
でも、



『皆さんご機嫌よう…』



今度は貴方の血で、私の渇きを満たして下さい。



―――青琉―――




刻々とその時は近付いている、気がする。



(…上等じゃねぇか)

「―――おい」



政宗が気付く一瞬前に、小十郎が顔を横に向けていた。政宗も同じく横へ目を遣り、庭から人に景色は走り変わる。
静止した視界では、片手を腰に添え自分を見下ろす仁王立ちの女が首を傾げていた。

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