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―――その頃。
武田の屋敷内はどたどたと人が行き来していた。夜中だというのに明かりが付き、話し声で忙しない。
移動する甲冑姿の者達。床を踏み叩き、話し合い、腰や手には刀身を隠す鞘が月に照らされていた。

『人質とひきかえに 楯無鎧 六(りゅう)の爪 持ってこられたし』

文にはそんな事が書かれていた。目を離すと代わりに庭に点在する忍の死体が見える。屋敷に上がる前に忍隊が片を付けていた為、大事に至った報せはないが良好の事態とは言い難い。



「松永め。調子づきおって」

「お館様」



室内の影に溶け込むように佐助が現れて、信玄は少し頭を後ろに傾けた。



「どうやら当たりみたいですよ」



佐助がそう報せると「ご苦労じゃった」と声にした。すると少し笑った佐助の気配はまた一瞬で消える。

再び庭へと目を戻し、まんじりと事の仔細を頭に巡らせ目を閉じた。



「…これは色々と事が深そうじゃのう―――…」



そう零した信玄の、武田の屋敷の遥か頭上を少し赤みがかった満月が見下ろしていた。



◇―◇―◇―◇



「…」



同時刻青琉は縁側に座り考えていた。外れにあるこの部屋は女子供の一時的な避難場所となったのだ。一息つく間もなく、押し寄せてきた者達と一緒に待機する運びになった。

部屋は赤子の泣き声やら子供の不安そうな声やら、それらを宥(なだ)める母親の声やらで落ち着きをなくしている。そんな中で黙っていられる青琉ではなく、一歩外れた縁側で女子供達に背を向け、片膝立てて黙考していた。

事情は聞いた。
先刻片倉を引き留め“独眼竜は”と訊ねて分かったのは、人質を助けに向かったという事。先の襲撃も突然きた矢文の主―――松永久秀の仕業らしく、武田の“楯無鎧”と伊達の“六の刀”との引き換えに武田・伊達双方の人質を返すとのものだった。武田と伊達、まだ先の戦から帰って落ち着いていない間に味方の兵士が姿を消し、夜に矢文がきたのだ。今日の会合の後―――自分が寝ている間に起きた事だった。
己が向かうと願い出た片倉を押し切り、独眼竜は真田とともに出立したのだという。

(…)

縁側から投げ出している己の左足を見つめ、歯痒さに顔を歪める。右足は曲がるぐらいまでにはなったが、大きな傷を負った左足はまともに動かない。無理に動かそうとすれば痛みが全身を締め付け、情けない呻きを上げるしかなくなるのだ。



『…が…っ、は…!』



手も足も出なかった。無力だった。
猿飛の介入がなければ私は殺されていただろう。
力のない者は蹂躙される―――織田で知った、いやそれよりも前に…一族が青香に皆殺しにされたあの時から既に明白なこの世の理。死ななかった私は運が良いとしか言えない。

今の私は守られるだけの一人の人間。戦えないただの女。



『あ…!あぁ…ッ!!…』



あの時と同じだ。誰も守れなかった幼き日の私。大事な人を犠牲に生き残った私。

力んで床に立てた爪から、すっと力を抜いた。
横風が長い髪を遠慮がちに舞わせる。その揺れた髪に時折隠れる目は一点を見つめ、冷静な顔付きに戻っていた。

(―――…結局この体じゃ死ねなかっただろうが)

青香に受けた傷だけが残るこの体では、理由なく他の傷をなかったものにする体では抗う意味はなかったのかもしれない。無力を嘆いても徒労なのかもしれない。
此処に集まっている女子供は生と死が隣り合わせだろうに、

≪コロコロ…≫

私は良きも悪きも生き続けるのだから。

ふと青琉の視界の真ん中に、転がり落ちた鞠を取りに来た童が現れて目が合う。なぜかやましくなって目を逸らした。
だが、とたとたと走り寄ってきた女童は不思議そうに青琉の顔を覗き込む。



「お姉ちゃん、怪我してるの?」



てらいないその様子にどうも無視ができず、ちらっと目を戻して。



「…ああ」



それだけ返す。特に友好的なつもりはなかったのだが、その子供は月を揺らしていた大きな目をきゅっと細めて、



「早く治るといいね!」



そう言ってはにかんできた。その笑顔がこの状況で曇りひとつなく澄んでいて。私は。



「…」



呆けてしまった。しかし、ふっと笑ってしまう。ぽんとその子の頭に手を置いて、



「ああ」



そう返していた。すると少女は私を見ていた大きな上目を満面の笑顔に緩めて、中へ走り戻っていく。

それを見送った後の青琉の口元は、少し引き結んだものへと変わった。



◇―◇―◇―◇



更に深くなりつつある夜の中でまさに今、一人の男が行動を起こそうとしていた。味方の兵士数人に囲まれながら馬上で彼らを見下ろしている小十郎だ。



「…それじゃあお前ら、此処は任せたぜ」



背中が出発を語る一歩一歩。馬に揺られて歩き出した時だった。



「―――…待て!」



馬の足が止まる。小十郎の目はゆっくりと背中越しにその声を振り向いた。小十郎の背中を見送ろうとしていた伊達の兵達も「何だ」と言いたげに後ろを向く。
そこには両手で一刀を支えに立っている青琉がいた。杖を突くように歩み寄ってくる青琉は一歩進む度に、険しい顔をさらに顰めている。



「どこに行く」

「てめえには関係ねえよ」



顔を前に戻して、素っ気なく返す小十郎。先を急ごうと馬を蹴る姿勢に入ったが、



「独眼竜か」



合図が届く寸前、挟まれた言葉に足を止める。再度青琉を一瞥すると、まだそこに懲りずに立っていた。
そして思いがけない一言を発したのである。



「私も乗せろ」

「…はあ!?」

「誰がお前なんか」




まさかの言葉は誰も予想だにしなかったものである。当然のごとく伊達の兵士が声を上げ、一人が言い出したら留まらずその場に居合わせる兵士達は皆口々に反発の意を表す。
だが食ってかかる彼らを青琉はひと睨みし、逆に委縮させた。



「…や、やんのかこら」



伊達兵の勢いは失ったものの譲らない青琉。それを依然として背中越しに黙視していた小十郎だったが、



「…馬鹿かてめえは」



呆れたように目を閉じた。「なっ…!」と言葉に詰まった青琉が二言目を口にする前に、



「手負いは大人しく待ってろ」



今度こそ馬を蹴ってこう言い残す。



「足手まといだ」



青琉は、はっとして立ち尽くした。目を開いたまま馬の蹄が離れていく音を愕然として聞き届ける。

風が髪を靡かせた。そうして時が止まったように感じる、長い一瞬は次第に解けていく。
ここぞとばかりに小十郎を送り出す「お気をつけて片倉様!」「筆頭を頼みます!」という言葉。
…そんな外野の音は景色のように気にも留まらない。
そうこうしているうちに少しずつ声援を終えた兵士達がぞろぞろと踵を返し始め、横を通り過ぎるがてら、ちらちらと私を見ていった。煙たそうな目、避けるような視線を向けて、



「…」



―――誰もいなくなった。
取り残された馬舎で何も言葉が出ない。

(足手まとい)

…その通りだ。今の私は戦場で何の役に立とう。
ならば武田にいた方がまだ。

(まだ)

ぎりっ…と、唇をきつく噛み締める。柄を持つ手に強く力がかかり、体を支えていた重心がふらつく。それは無心で持ち堪えた。でも。



「―――お困りの様で」

「!!」




意識はその聞いた事のある声に全て持っていかれる。はっと後ろをみると入り口に腕組みをし、寄りかかっている佐助がいた。



「…何しに来た」

「ほんっとあからさまな殺気だねえ」



分かりやすい怒りの感情に佐助は苦笑した。のも束の間、背中を離して青琉に体を向ける。



「今から真田の旦那の様子見てくるワケ。ちょっと遅いからね。
もし良かったらおぶってくけど「ぁあ゛?」



さらっと笑顔で訊ねた佐助の言葉は当然の反応に遮られた。余程苛立っているのが明確に、影の降りた睥睨(へいげい)に表れている。ぎろりとずっと睨み付けてくる雰囲気は子供が見たら泣き出す怖さだ。
だが支えありで立っている無防備な背中がどうも憎めず、佐助はふっと下を見て笑ってしまう。



「何がおかしい」

「…なんでも。あ、そうだ」



あんたに伝言があったんだった、と言葉を切って歩いてくる佐助。対する青琉は驚きを瞬きで隠し、すぐ後退るように体を強張らせた。
しかし佐助は、とある地点で足を止めて手を伸ばす。その先は繋いでいる馬だった。
鼻筋を撫でると唸った馬を、白黒させた目で眺める青琉に佐助が言う。



「行きたいなら馬使ってもいいってお館様が言ってたぜ。…どうする?」



すっと向く佐助の視線。青琉は警戒を解かず、その場を動かない。



「…私に貸を作る気か」

「…」



佐助は緩く口角を上げたままだった。だが耐えかねたように目と口をにこっと緩めて。



「さあね」



じゃ、と言い残し姿を消す。音もなく、まるで影の様だった。

阻むもののなくなった入口に、気付けば淡い月明かりが射している。残されたのは本当の本当に、自分と馬だけだった。



「…」



彷徨う先を失った眼差しは地に落ちる。しかし迷って震えた瞼はその一時。くんと糸にひかれるように顔を上げて、青琉は馬を見つめた。



◇―◇―◇―◇



パカラッと小気味よい足音が駆ける。馬舎を飛び出した姿を瞳に映す大きな影は、その馬舎の屋根上から見下ろしていた。
―――両足を広げ、腕を組んでいる信玄だ。
遠くなっていく背中を眺めていたが、やがてくるりと背を向け満足そうに笑う。



「…まだまだ若い者には負けてられんのう」



そう、柔和な閉目を残して呟いた。

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