75

―――梟が鳴く。静寂が降りた夜に、ころころと鳴く虫達はまるで笛の音のように。そしてどこかで、りりりと囀る鈴虫は点々とした銀砂のきらめきを想像させる。

青琉はその部屋で一人眠り続けていた。閉まっている障子から朧に入った月光はその頬へと躊躇いがちに落ちている。



―――ひっく…―――



『青琉』



声に呼ばれた。つられて嗚咽のまま目線を上げた視界に入る姿は幼い。



『どうしてあなたなの?』



見知っている少女は顔を下げ、少し離れて立っている。
嗚咽を止められなかった。黙って見つめ返して、情けない泣き顔で棒立ちになっていた。
―――謝罪。
―――助力。
発すべき言葉はもう後の祭り。不毛な繰り返しを闇に葬り続ける。
それでも終わらないのだ。



『…答えて』

…ッ。

『答えて!!』



ごぉっと辺りは焼野原と化した。炎が猛って身動きができなくなって、顔を顰めたその時。

≪ゴオオッ!!≫

今度は当然の突風が炎も闇も吹き飛ばす。
目を丸くした。しかしあっという間に周りの景色はその風が攫い上げてしまって、既に彼女も炎もない。
真っ白に塗り替えられた空間で風が吹き返して、髪を撫で揺らし、立ち尽くす。

つと感じたのは、くしゃりと頭を撫でる手の感触。
驚いて後ろを振り向こうとした。しかしその目は、



『―――…!!…』



眩い光とともに夢うつつの境を失う。




◇―◇―◇―◇



「―――……、」



うっすらと目を開けた。
月明かりの一片が青琉の瞳の中に輝く。虫の鈴鳴りを耳が拾い、夜の佇みを理解して。



「―――!」



はっきりと目が覚めた。

(…また、夢か)

何も驚きはない。青琉の双眸は諦観し無表情に、もとの細さに戻る。
武田に来てずっと見続けてきたから、もう放心はしなかった。



『嘘だ…』



私は無知だった。



『そんな筈ない』



だがいざ知ると、知りたくなかったと否定して慣れ親しんできた過去に縋った。…そうする事で自分を保つしかなかった。



『そ、……れで………い、い』



だから。
あの時は死が最も容易く、それ以外の策など考えられなかった。

ただそれもつい先日までの話。

―――青琉は体に力を入れ、起き上がる。



「っ、…くっ…」



私は私に、無知である事をやめると。誓ったんだ。

何とか半身起きれた程度。手を横に付いていないとできないが、それでも寝たきりよりは十分いい。
青琉は布団の中で左足が動くか確認した。案に違わず、膝を曲げるのは途中で刺す痛みが走り、表情をびくりと歪ませる。飲み込みかけた呼吸を一度吐き出した。

それにしてもおかしな夢だった。

青琉は頭を押さえるように、手のひらを額に当てる。
いつもと同じ。なのにいつもと違うのは、最後寝覚めが最悪な筈が今回は逆だったからだ。
嫌な汗は掻いていない。…あまり覚えていないが、

(あれは)

誰だったのだろう。

―――短いようで長いような沈思黙考。ふと横の障子から漏れ入る光を見て思い出した。



「私はあの後ずっと…、」



寝ていたのか…?

今更そんな疑問が浮かんだ。そう、もう真夜中になっている。
斯様に昼夜を気にかけないほどの眠りに落ちたのは戦に身を投じる以前。帰る家があった頃だ。
…もう昔の話だ。

―――ざあっと風に擦れた木の葉が鳴った。波のように振動が伝わって一周する。辺りは変わらず虫の音が少し鼓膜をざわつかせるとても穏やかな夜で、空を照らす明かりもとても優しい。

青琉は障子から目を離し、前を向いた。そのまま考えるように顔を下げ、動かなくなる。しかし。



「…く…っ、う…」



無理に体を持ち上げて、ばさっと布団を剥ぎ捨てると畳の上を這った。横座りを崩し、左足ごと体を両手で引き摺り進む。途中、半下敷きになっている右側が傷んで手を止めて蹲った。それでも二、三数えた後に前を睨み付けて進み、障子を突き飛ばすように開くと淡い月に照らされる。



「く―――…、」



縁側のふちに座るまで、兎に角体を引き摺った。
そして―――漸く視界が広く、中庭を見せる。夜明かりに浮かぶ石灯篭や木々を。

青琉は地に足を降ろした。白小袖の裾から出た足が、足首の少し上まで仄かな光を反射する。左腿がズキズキと痛むが、外の空気が幾分解(ほぐ)してくれたように思えた。

そよいだ夜風。穏やかに佇む目の傍で、宵色と混ざって髪が滑る。
紺空を見上げ、映った形を閉ざすように目を細めた。



「…満月か」



曇りひとつない満月だった。対する空は暗転し、紺鼠に染められたように霞んでいる。

≪―――ザザッ≫

その中、予期せずして急に見ていた月が左右にぶれ、朧げな赤を纏った。咄嗟に目を見張る。しかし気が付けば月はまた紙燈籠に似た謙虚な光に戻っていて、赤はもう、ない。

唇を噛み締め、首を垂れた。



『行ってはならん青琉!』



ずっと、ずっとだ。
頭にはその記憶がこびり付いて薄まらなかった。
幾度この手を握り締めても、家が燃えたあの日は根深く刻み込まれている。

懐から取り出した丸い玉。それは自分が持っていたのだと後で独眼竜に渡された。―――青香に踏まれ壊れた簪に付いていた硝子玉。
硝子にはひびが入って、もう景色を透かし見てもその向こうを窺い知る事はできない。



『…―――青琉―!こっちこっち』



―――もうあの頃に戻るのは。

(容易くない)

そっと目を瞑る。風は変わらぬ強さでただ優しく、無関心に肌をそよいでいた。それがとても心落ち着く。



『あなたは妹じゃない。
―――異なる時世、先の世から来た人間よ』




手のひらの上の硝子玉を固く握って、目を開けかけたその時。



『―――死ぬな―――』



「!!―――、…ぐっ…!」



(な、んだ…ッ)

脳裏を霞める張り詰めた声。感情を飲み込むように噛み締める一瞬のそれが強い痛みに変わる。咄嗟に頭を押さえていた。
しかしそれが何か考える間もなく、突然の殺気が体を突き抜ける。
それは背後。青琉の後ろで―――凶器を振り翳す。



「―――!!…」



目を見開いた。

≪バキッ!!≫

―――他の部屋で仮眠していた小十郎がパッと目を開く。
“何故か”
それは自分の体に染み込んだ幾年の勘が告げた、それで十分だった。
即座に刀を手に取り襖を開け、外に出ると縁側を駆ける。



◇―◇―◇―◇



その頃。青琉は倒れるようにそれを避けていた。元いた場所は大きな穴と共に瓦礫を散らべている。



「…ぐ…、
―――!!」



この数日のうちに鈍ってしまったのか。
目をその惨状に遣っている刹那が隙だった。剥いた目で見上げた時には寸前にまで迫った手をはっきりと映す。
がっと掴まれると、敵の片手にどんっと首ごと叩きつけられた。



「…が…っ、は…!」



締められるように苦しい。ぎりぎりと床に押し付けられる首が空気欲しさに反り、敵の手を引き剥がすべく掴んだ。
青琉は小刻みに震える体でゆっくりと顎を引く。睨んで歪んだ表情で歯を食い縛りながら焦点が定まってくる。その装いに忍だと直感した。だが全身黒で表情も何もわからない。
そんな中、敵の空いている片手にはめられている手甲鉤(てっこうかぎ)が満悦そうにぎらついて―――振り上げられた。

しかし降りる前に忍の腕を別の忍具が襲う。ドドドッ!と苦無が綺麗に前腕を捕らえ、忍は青琉から退いた。



「…げほっ!!かはっ…!」

「あのさー」



その声は突如として中庭から届いた。
二人を視界の中央に置き、まるで客席から眺めていたのは。



「勝手に外に出られちゃ困るんですけど」



佐助だ。呼吸を整える傍ら、青琉は流し目を遣る。一方で彼を認識した忍は今までが嘘のように、咳込む青琉には目もくれず苦無を抜き捨て、佐助への応酬に走り出した。



「!」

「…まあそうなる―――、か!」



はっとする青琉。しかし佐助が早かった。距離を詰めた軌跡は一瞬で、ひゅんっと各々の速さが風音を生んだが最後―――。
佐助の大型手裏剣が敵の肩から胴を斬り裂く。ぶしゃっと生々しい音が青琉の耳に届いた。



「大胆に攻めてくる事…。要求も何も関係ないってか」

「…」

「…あ、大丈夫だった?あんた」



独り言のように呟いた佐助を黙視していた青琉に声がかかる。まるで“ついで”。飄々とした口ぶりに青琉の目は鋭さを増した。



「…お前」



闇夜の下、空気が引き締まる。



「誰だ」

「え」



しかしぽつり、青琉が何気なく言った途端に緊迫は霧散した。
まんじりと不機嫌に答えた彼女は突然の参上者登場に“本当に心当たりがない”と目で訴えている。完全に【通りすがりで助けてきた知らない人】扱いで、真顔で彼の心を傷付けていた。
佐助は目を丸くする。



「もしかして初対面だっけ」

「貴様なぞ知らん」



【はい】か【いいえ】で済む話が間髪入れず、つっけんどんな全否定を飛ばす青琉に佐助は更に一太刀食らった気分で背中から倒れかけた。

(あっちゃー…そういや)



『…逃したか』



(一方的に知ってたの俺様か…)

相手は嘘偽りなく忘れているようだった。顔も声も分かっていたのは自分だけのようで、…色々と考え漸く自分の中で事は落着する。

その時屋敷の向こうから始まった小さな人声。意識を一瞥で向けると、つき始めた明かりが曲がり角の奥でぼんやり灯っている。



「…まーいいや」



のんびりもしていられない。

心でそう唱えつつ目線を青琉に戻した。以前こちらに神経を集中させて視線は逸れないがそれだけだ。



「改めまして、俺は猿飛佐助。武田の忍だ」



実はあんたが織田で奥州を張ってた時コイツを見舞ってねえ、と言って苦無を通した指を揺らせば「…あの時の忍か」とやっと理解を示してくる。



「報復か?」

「そんな。あんたじゃないんだ、俺は怨情じゃ動かないよ」



と佐助が言えば、あからさまに青琉の癇に障って顔が険しくなった。



「丁度あんたに聞きたい事があって―――、ね」



切れた言葉の間に、佐助は青琉の前に音も立てず現れた。一瞬面食らう青琉。しかし両肘で体を支えるのが限界で、床を押して後ずさる足が真面に機能しないためその場を動けない。上半身を半分起こしているような状態で青琉はきっと睨み、体を縮めた。
だが佐助にとっては何の問題もなく、寧ろ青琉が逃げられないと見て依然見下ろして言う。



「あんたの姓ってさ、」



―――望月?―――



◇―◇―◇―◇



「実に面白い」



その暗がりはとてもよく男に似合った。錆びれた色、豪壮さを物語る残痕。暇を弄ぶには申し分ない。



「よもやこうも容易くあちらから来ようとは、世はまさに相即不離…万事が流転する無形の理」



あの邂逅も、確執も先行きが楽しみでならない。欲して、欲して、滅ぼして―――全て己の羨望のために生きている様が心を高揚させた。
珍しくこう思う。
“こうして見えたも必然という事か”
と。

―――ゆらゆらと揺れる行燈の中で小さな火が縦伸びした。影の勢いも相まって長く大きくなる。



「…そうもあれば最期を愛でたくもなるだろう?」



どことなく己自身に問った。
羨望を持ったら何処に行きつくのか、私怨と混ざるとどんな壊れ方をするのか。



「…ああ、楽しみだよ」



と。

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