73
『もうお前とは…いられない』
そう少女は言った。背には壁、そして頭の直ぐ側には手が張り付いている。
ついさっき、どんと叩きつけられた左手だった。逃さないように道を防いでいる。
少女の目は濃い色の髪と陰に隠れて見えない。だが、怯えひとつ見せず顔を上げて真っすぐ言った。
『―――忘れてくれ』
と。
「!!」
ばちっと目を覚ます。
顔にかかる髪、籠った空気、鼓膜を震わす控えめな囀り。
閉まっている障子戸を越えてまではっきりと鳥の声を拾える感覚は数日ぶりだった。
目に映る天井板を認識して、敷布団の上に片手を投げ出し寝ていたのに気づく。
障子紙を透けてしつこく入ってくる強い明かりから時は既に申の刻かその辺りだと推測した。
いつの間に眠りへ落ちたのか、布団に広げている手のひらには丸い鉄の塊が乗っている。
青琉のいた安土の牢で拾い、ずっと持っていたものだ。小さな鎖が繋がっている以外特徴のない膨らみのある鉄。首にかけたままだったのを横になって思い出し、外してそれを掲げ見ていたらこれだ。
ぎゅっと握り、体を起こす。
「…」
何だったか。
(前にも同じようなものを見た気がする)
しかし思い出せない。それがいつ、どこの、どういうものだったか。
政宗の顔に柔らかな山吹色が差して明暗を作る。部屋も一面夕日の色に染まっていた。
思案にまだ耽る政宗の、独眼に反射する光が鋭くなる。
「政宗様」
そんな時、聞こえた重臣の声。障子戸を見上げると、座して夕焼けに象られた小十郎が映っていた。「あぁ入れ」と促すと頭を下げ、すっと横にずれた戸。暮れ方の日が強みを増して目に入り、政宗は目を細めた。徐々に陽光が邪魔して見えなかった小十郎が見えてくる。
「青琉が目を覚ましました」
部屋の前でそう言われて、コイツに頼んだのはそんな前だったかと。
「…ok」
寝すぎたのを理解の流れに汲む。どうも数晩小春日和に埋もれた所為で鈍ってしまったらしい。後でコイツに手合わせしてもらうかと思いつつも、おくびにも出さずに立ち上がって手にある鉄飾りを懐にしまった。
◇―◇―◇―◇
紺に押し潰されるような残照だった。つい一刻前に目覚めたというのに濃紫が大凡を占めている。塀で先は見えないが、はみ出てゆらゆらと紺青に混ざる茜色はあの日を彷彿とさせた。
幼い頃の炎上する屋敷。見知った骸の数々。至る場所の、炎。炎。炎。
―――何もかも変わってしまった私の始まりであり、終わりの日。
何もかも恨んで、絶望した日。
でも今は、
「…」
空虚だ。
「よう」
「!」
驚きに身じろぎする。上体を少しだけ斜め後ろに向け納得がいった。
突然差し込んだ明かり。正面ではなく横の障子戸が開けられ、私の空間にひとつ強い黄昏が入り込んだ。眩んだ目もすぐ慣れて彼の者の姿が分かる。戸に手をかけ、そこに立つ独眼竜を。
「体はどうだ?」
後ろ手に引き戸を閉め、遠慮も何もない普段通りの速さで青琉の側に向かう。青琉は何も言わない。それどころか顔を背けた。
しかし政宗にとってはいつも通りの青琉で、織田で見た無意識で暴走する彼女ではなかったのが妙に安心して口元が緩んだ。
「聞いたぜ。甲斐の虎、此処に来たんだってな」
座った政宗の話題にまんまとつられて青琉はぴくりと手が動いた。
「これだから他所の屋敷じゃ落ち着かねえ」
「…」
それからは政宗の言葉が真っすぐ入ってこない。動いた手はそのまま布団を握り締める。
敷布団にあった片手は政宗の見えない場所で引っ掻くように、敷布を掴む。
「…―――何故、」
政宗は目線を上げる。
「私を、…助けた」
「…」
青琉の顔はいまだ逸れたまま、政宗には髪の隙間から覗く口元が見えた。すとんと降りている艶めいた長髪が、夜へ近付く外と同化していく。姿を暗に溶かしてその瞳ごと表情を塗り潰してゆく。
「言っただろう」
忘れてくれ、と。
「何故…追ってきた。
私一人の問題だ。一族の事も…青香の事も、私に責がある」
片倉、そして今し方までいた武田信玄にも聞いた。この戦では浅井、織田の両軍が瞬く間に落ちたと。
なれどそれは問題じゃない。
掻き回して死に追いやったのは青香。私の身内だ。
私は青香を止められなかった。
「私は」
ぎゅっと自分の体を支えていた腕を掴む。
「半端ものだ」
また生き残ってそれを知る。
青香の狂気は私で済む話ではないんだと、取り返しのつかないものなんだと。
―――不確かな私にできることがもう分からなくなる。
「本当は一族に生まれたのでもなく…拾われて育ててもらい、…かと言って、恩を返せたわけでも……ない。
この治癒力と見目形の所為で、…青香ごと居場所を…壊した」
『うっ…ひっく』
―――ずっと諭してくるんだ。
「この命で…償わなければならない。…どうあっても、何が何でも。災厄を齎した…私が、青香の怒りを…受け止めなくてはならない。私で済むのならば…」
『そ、……れで………い、い』
この死で少しでも青香を救えたのなら、これ以上道を違えずに済むのなら。あの世で父上や母上、皆に詫びることもできた。
そう思っていた。
―――…そのまま未練なく終われたならよかった。
「なのにお前は!」
ぐいっと腕を引かれていた。恫喝して顔を向けた筈がその一瞬に驚きへと変わる。
青琉は崩れた体勢の飛び込むまま、政宗の胸に抱かれた。
「…っ…」
放心だった。傷だらけの体も痛みも忘れるくらい。
「そうやって一人で何でも背負い込むと思ってたからよ」
腰に回っていたその手が強くなる。
「あの女と何があったかは知らねぇが、」
政宗は目を細めた。
「生きるのが、苦しいか」
「…っっ…、」
答えは、奔流となる寸前なのに今だ傲慢さがそうさせない状態で言葉に出ない。
しかし体は震えた。左手は側にある政宗の羽織をぎゅっと握る。くしゃくしゃになるくらいに握り締める。
それが答えだった。
青琉を眼下に映し、政宗がゆっくりと目を閉じまた開けた。
「生は死よりも遥かに重い」
上げた目線の先では庭の木々に止まる小鳥が小さく首を動かしている。最後に残った太陽の光を浴びて、迫りくる夕闇を前に飛び立とうと羽を広げたり閉じたり忙しない。
「だが生きろ」
政宗は青琉の左手に、己の手を被せて握った。
「生きてりゃどうにでもなる」
震える手を守るように覆った。
そんな政宗達の横の中庭では、きゃっきゃきゃっきゃと走り回っていた子供が現れてその中の一人が転んだ。
閉まっている障子戸の向こう、武田に仕える誰かの小倅。泣きそうな童に後から来た童がかけよるとおんぶをして踵を返す。
―――…残った一筋の夕日が眩しい。
「気に入らねぇなら刀を抜け」
我慢を吐き出していい。怒りの矛先をオレに向けろ。
「―――責任もって、受け止めてやるよ」
ふっと笑った後にそれが聞こえた。いつもなら、以前なら虚仮にするあの鼻笑いが神経を逆撫でするのに。望みを妨害され、生を強制されたのに。
―――唇の隅がひくつく。
「馬鹿な、ことを…ッ…」
掠れた声はそう並べるのが関の山だった。湛えていた涙が頬を伝う。
最初の涙がこぼれてしまうとあとはもうとめどがない。
肩を細かく震わせて、嗚咽を殺して青琉は泣き続ける。
―――消えそうな最後の黄昏の中。
重ねていた手を離し、青琉の頭に添えると自分の肩に寄せた。
[ 73/122 ][*prev] [next#]
[戻]