72
―――青琉―――
『!』
暗い暗い夜が始まった。…その声で私は目を開ける。
しかし本当は夜ではない。それは分かっている。
―――黒。見渡す限り黒の場所。
足元を見ても、自分の姿が浮かんでいるようにしか見えず。息を吸い込んでも此処がどこか何の手掛かりにもならない。
ただこの空気が人体に害を及ぼすような類ではない、いつもと同じ呼吸の源だと再確認しただけだ。
…何度目か分からない再認識を。
『うっ…ひっく…』
そしてまた繰り返す。幼い青香が蹲って泣いている。
何度目かは分からない。でもこうやって私の前で青香が泣き続けるんだ。
最初はそこにいるのが青香だと知って走った。名前を呼んだ。手を伸ばした。
だが青香は蹲ったまま、走る私より早く遠ざかり届かない。黒に吸い込まれていく。
そして今の姿に変わると背を向けて離れていった、その繰り返し。
『うっ…ううっ…、』
…何度だって走り続けた。根拠のない望みを追って走り続けた。
―――でも一向に結果は変わらない。
青香が見えなくなると何も見えなくなって、閉じた覚えのない目が覚めるとまた私の前で蹲って泣いている幼い青香がいる。
『うっ…ひっく…』
青香は泣き続ける。その声で私の心に揺さぶりをかけるのが役目であるかのように。
分かっている、これは悪夢。
『お前さえいなければ!!…私はッ!―――ひとり娘でいられたのにッッ!!』
青香の抱える闇を知らなかった私の。
『どうして私と同じなの…。私を追い詰めるの…』
負うべき咎。
このままだと泣き止まないのは知っている。今までのように私が走り出しでもしない限り、決まった結末を選ばない限り。
―――この時間は永久に繰り返される。
『…』
これは罰。これは報い。私は服すべき罪人だ。
…だから。
するべきことは分かっているのに、
『……』
体は全く動かなかった。目で見た状況を得て、頭は回転しているのに、目を開いたまま逸らせない。首から下が断絶されて全く別のものになってしまったよう。
私は青香を此処から救い出さなければならないのに。
『ひっく…うううっ…!』
強くなる嗚咽が私を急かす。助けなければ。青香の側に行かねば。
…そう、焦燥が頭の中で軋み回るのに、復調の兆しすらなく刻々と心だけは悲鳴を上げた。
声は、出ない。
目を閉じたくても閉じられない。
思考は破綻しているのに放棄できない。
終わりたくても、終われない。
『…や、めろ』
何を拒むものかは、
『やめてくれ…』
自分でも分からない。
耳を塞いだ。
どっと膝をついた。
それに端を発して、より青香の声がこだまする。
嫌だ。苦しい。壊れる。
もう。
やめてくれ―――。
「―――…!!」
視界が別の景色になったのと呼吸が荒くなったのは同時だった。
「はっっ…、…はあっ…!」
開いた目から見える色彩は鮮やかで、肺を満たす急激な空気に心が付いていかなくて青琉は胸を上下させる。
視界には高く茶色の壁が覆い被さっていた。しかし凝然として、天井という認識すらできないまま息を切らす。
「やっと目が覚めたか」
「ッッ!!」
自分の状態すら解せていない上、唐突にかけられた声は心臓に氷水を注ぎ込まれたような感覚だった。
青琉は弾かれるように横を向く。すると奥の景色を遮る襖と、その前に胡坐をかいている男が自分を見ていた。
―――瞬きも忘れて肩で息をする。離れたところからじっと崩れない強面には覚えがあったのだ。
「呑気に夢見て起床とはいいご身分だな」
「…っ、お前は」
片倉、と続けようにも声にならなかった。代わりに濁って掠れるような呻きと全身の痛みに身を縮める。
目をぐっと瞑って歯を食い縛り、再度絶え絶えな呼吸に陥った。忽ち汗が体を纏う。手を、足を動かそうとし傷口が開いたのだ。
背を向け小さくなる青琉を見て、小十郎が溜息をついた。目を閉じて呆れた様子で「全く」と溢すと立ち上がって、痛みに耐える青琉のところまで歩いてくる。
「…左足は折れてる上に出血多量、アバラもかなりやってる。
それで生きてたのがおかしいくれえだ」
「…ッ、…」
背中で否が応にも聞こえる言葉は一番理解に結びついて、唇をきつく噛み締めた。
少しだけ目を開ける。
眉間には変わらず皺と脂汗が浮かんでいたが、畳の踏み鳴らしが近くなって、見えない背後に目だけ向けた。
「感謝しろよ」
「政宗様に」と後ろで止まった小十郎が言い残す。
「…」
足音は遠ざかって、そのまま縁側に向かうのだろうと敷布を握り締めた。
「―――織田、は…」
ようやっと為した小さな声は小十郎の足を部屋の境目で止める。
「滅んだ、…のか」
殆ど消え入る声は小十郎の耳に届いていた。しかし彼は振り返らない。
「ああ」
ただ一言だけ。
「明智と連れの女―――…テメエによく似た女の仕業だ」
「…!」
そう、ありのままの事実だけ答えた。
青琉は瞠若して半開いた口が塞がらない。直ぐに視線は下を向き、自分の布団の影に表情を隠す。眉間を歪めて歯を噛み締めた。
「―――…そうか」
喉まで出かかった何かを飲み込むように集約する。それきり鳴りを静めてしまう。
小十郎は無表情のまま、相変わらず戦から離れた長閑な光景を目に映していた。
青空を仕切る塀、その前に点在する赤い実をぶら下げた木が庭を彩っている。
しかし一度だけ瞬きを長くしてそれらを遮断した。
「…飯を済ませろ」
言うなり歩は進み、今度こそ縁側に出て進行方向を見るや障子の向こうへと去っていく。
「その血の気のねえ顔じゃ政宗様の気が休まらねえ」
はっとして、敷布を掴む力が抜けた。
眉間は微動しながら、行き場のない視線が布団の上で力なく横たわる。―――そして。
強く目を瞑って消えゆく足音を、一人、部屋の中で聞き届けた。
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