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―――大きな嘶(いなな)きが響き渡る。馬が前足を大きく地面から離し、上体を反って立ち止まる。乗り手の政宗が手綱を引っ張ったからだ。
小十郎、そして後ろの兵士達も続々と≪停止≫の指示を己の馬に送り、どたばたと土煙や騒音を立てながら主の後ろで止まる。
その最中、一足先に落ち着いた政宗は道を妨げている信玄を黙視し、目を逸らさないでいた。
「お館様!!」
その緊張感に構わず幸村が信玄の方へと一番に馬を走らせる。「どういう事だか…!」と漏らし瞬時にひと跳躍で追った佐助に続いて、同じく総大将の急な登場に騒めく真田隊兵士達も追わざるを得ない。
幸村は手綱を強く引き、突然の指示に驚いて高く上がった馬の前足が地に着く。同時に佐助が幸村の側に現れ、追いついた兵士もぞろぞろと集まってくる。
それを、遮る木々のなくなった政宗の、横に流した目が映して再び前方の信玄を見遣った。
「―――…Ha」
周りのどよめきに紛れて。
「…魔王がいなくなりゃあ同盟も何も関係ねえ、というわけか」
そう政宗が漏らすと、かちゃっと空いている左手で鞘を握ったまま親指で鍔を引き上げる。隣にいる小十郎が一瞥する心中は穏やかではない。
(甲斐の虎―――何を)
「真田、テメェもとからそのつもりだったか」
「そのような…!」
こうした状況になると自然に疑いの目は幸村に行って。静かに、しかし確実に政宗は敵意を向け始める。幸村が歯切れを悪くしたその時。
「儂の独断よ」
そ奴は関係ない。
―――と、閉口していた信玄がとうとう口を開いた。目を大きくした幸村とは違い、政宗は何ら変わりない様子で信玄に顔を戻す。しかし相変わらずの仁王立ちで見下ろしてくる様に、無意識な苛立ちが政宗の眉間を歪めた。
「独断だぁ?」
「独眼竜、おぬし奥州へ戻るのであろう」
何を言うかと思えば、突拍子のない問を投げられ政宗は一瞬言葉を窮した。そんなもの、見れば分かるだろうと態々聞かれて苛立ちが増していく。
「それを聞いてアンタはどうする?此処でやるか?」
睨む直前の真剣な目で言う声は笑っていなかった。尖る言葉と口調が自然に味方内にも緊張と臨戦の雰囲気を漂わせていく。
小十郎が表情を厳しくした。信玄から目を離さず、指でさらに鍔を押し上げて銀の刀身を垣間見せた政宗にとうとう馬を一歩進める。
「落ち着いて下さい政宗様」
「こちとら魔王とやれず終いだ、ピンピンしてるぜ?」
「…」
小声で制した小十郎に構わず、不敵に挑発を始める政宗。見かねた小十郎が第二声を発するかという時だった。
表情ひとつ変えずにいた信玄が「ふんぬっ!」と曲げた膝で勢いよく馬から飛び降りた。
どん!と、直ぐ来る地響きとその大将たる威風に「うわぁ!?」「ひい!」と度肝を抜かれた兵達が身を縮こめる。手綱を持ったまま、上体が後ろに少し傾き、冷や汗が浮かんでいた。
それは武田の兵も例外ではない。
一方その信玄の目の前で、一番近距離な政宗や小十郎、そして反対側にいる幸村と佐助は警戒と緊張で構えた。
刹那。
「!!」
「お館様何を―――!!」
突如政宗に向かい走り出した信玄。目を大きくした政宗と小十郎以上に驚いた幸村が、佐助までもが目を見開いて動きが止まる中、語気を強めて馬を飛び降り走る。
「政宗様!!」
小十郎も間に合わない。迫る軍配斧。振り上げられた瞬間、政宗はかっと目を剥いた。
―――ゴオオッ!!
刃先と刃先がぶつかり合う瞬間。互いの起こした風が各々の軍に急激な突風を浴びせる。「うおお…!!」「ぬあっ!」と沢山の兵が下を向いて目を瞑り、ある者は腕で顔を覆う。周りの木々が葉を鳴らし合って撓った。
しかしそれも一時の間、風は始まりと同じく急に収まって止まる。
「…」
「…」
互いに相手だけが目に映った。政宗はその手に三爪を、信玄は軍配斧を。腕を伸ばし切った位置で止めている。しかし寸でのところで、得物は交じり合っていない。
―――沈黙が降りた。
「…」
ふと信玄が細めていた目を閉じて、
「…降りぬ、か」
とだけ漏らす。それを聞いて、政宗が訝しげに瞳を揺らした。
しかし理解する間もなく、どすんと斧を自分の側に立てた信玄はさらに続ける。
「参られい」
「…Ah?」
再び仁王立ちでふんぞり返る信玄に政宗は聞き返す。何の話かと、この場のだれもがその意味を直ぐには飲み込めず、しかし気にする素振りもない信玄は再度口を開く。
「独眼竜よ、武田にて傷を癒すがよい。おぬし等を匿えぬほど甲斐は手狭にあらず」
「!!」
政宗と小十郎、そして幸村と佐助―――どちら側も目を瞬いた。
(ちょっとぉ!?お館様、突然何を言って…)
佐助ですらその意図を汲むのに少々の時間がかかり、口を閉じたまま目を白黒させていたが―――信玄の目線を追って。ある一点で目を細めた。
「どういう風の吹き回しだ?」
「まだ織田の脅威は消えておらぬであろう」
【まだ織田の脅威は消えていない】
その言葉の意図するものが否が応にも頭に浮かんで、政宗の顔を一層曇らせる。
信玄の目は相変わらず揺らぎひとつなく政宗を見据えていたが、
「魔王を討った明智、その傍らの妻と童を亡き者にした女子―――彼奴らが今後動かぬと侮る事は出来まい。
…事切れそうな手負いとて戦力よ」
(このオッサン…)
とうとうその目を政宗の腕の中の青琉にずらした。青琉は政宗の片腕で目を閉じたまま、微かに息がある程度。誰から見ても血の気のない肌で、止血している足の布も血を吸い切って乾き始めている。体もこうして抱えていなければ冷たい風に温度を奪われていきそうでもう一刻の猶予もない。
「おぬしとてこのまま終わるつもりはあるまい」
「…」
『今度は貴方の血で、私の渇きを満たして下さい』
―――青琉―――
髪で隠れた表情は思い出して動きを止めていた。静かに佇む口元に今か今かと伊達軍の皆が答えを待つ。その一人である小十郎も真剣な眼差しを主の背に注いだ。
ブルル、と政宗の馬が低く唸る。
「…食えねぇ虎だぜ」
言葉は比較的早かった。閉瞼(へいけん)は上がる顔と同時に勘繰るような隙がない瞳を覗かせる。
向けていた刃は静かに鞘の中へ戻して、最後―――鍔鳴りが締めた。
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