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―――ザッザッザッ。
ひたすら走る自分の足音がやけに大きく聞こえる。



『長政様…長政様…』



あれから半刻は経っただろうか。



『あぁ…ああ……、嫌あ…―――!!』



魔王の妹が膝の上で目を閉じたままの浅井を、腕に閉じ込めて泣き叫んでいた。あの残響が頭を過ぎる。



『―――魔王の妹は俺達に任せてくれ』



ぐっと手を握り締め、顔を下げた風来坊と。



『…―――青琉殿をどうか、頼みまする』



魔王の妹を後ろから強く抱き締めながら前田のとこの嫁サンがそう言った。…あの。言葉を飲み込んで耐えるような姿が頭を掠める。

…Why?



『忘れてくれ』



昔の自分を見ているように思うからか?
すり抜けた手を掴まなかった自分を。



「…」



(後悔、してるってか?―――)

「…政宗様」



意識は内から外へと開く。突然四方八方の壁が取っ払われたみたいに今の状況が頭に入ってきた。
しかし政宗は何もなかったかのように目を横に向ける。視線の先は走る己についてくる小十郎だ。



『―――お待ち下さい』



そう言って。青香がいなくなった時、一人で先に進もうとした政宗を呼び止めついてきた小十郎だ。

彼は走る速さを緩めず、目を後方に送り続けている。



「振り向かず、このまま先へお進み下さい」



静かに、しかし慎重に意識を後ろに向けていた。それを見て政宗は目を細める。自分達の背後に向かって、あるがだけの殺気を放つ小十郎の言わんとしている事が分かったからだ。

政宗はさっと前を向いて。



「…OK」



真剣にそう返した。



「任せたぜ、小十郎」



たった一言、その言葉に全信頼を乗せる。
「はっ」と返った声を耳に入れる一方、そんな二人の背中に何かがごおっ!と急接近した。



「…―――はアッ!!」



≪ガキンッッ!!≫

しかし肉を断つ鈍い音も、痛みを発する苦渋の声も起こらない。
その“何か”は予想できただろうか。まさか政宗と共に全速力で走っている小十郎が、矢庭に自分の方へと向きを変え、攻撃を受け止めるなどと。
均衡は一瞬。小十郎は直ぐに力で押し返して、その間に政宗は走り抜ける。それからばっさりと袈裟斬りで始末したのは、一を数えるまでもない。相手が悲鳴を発する時間もなかった。
ドシャッと地に転がる死体。目元以外を黒に包んでいた“それ”を後にするかのように顔を上げると、同じ装束の面々が此方に向かってくる。時折、点滅しているかのように姿が見えなくなるのは忍特有の影分身か何かだろう。
小十郎はその場で刀身を地と平行にして構える。近づく複数の音は次第に大きくなり、ふと刀に隠れていた険しい両の目を覗かせた。

その間にも政宗は進む。小十郎との距離は取り返せないものとなっていた。だからといって速さを緩めたり振り返ったりはせず、曲がり角が見えるとますます速度を早める。
同時に遠くからやってくる音が聞こえた。ざっざっと続くその正体は、曲がり角から現れた織田の兵で政宗を見つけるやいなや食いつくように襲いかかってくる。
だが敵が刃を振る前に、政宗の一閃が得物を弾き、直ぐ数人を斬り伏せる。まるで敵の間を縫って吹く風のように素早くだ。



「…早く来いよ?」



小十郎。

―――着火して、発射した銃弾のように直進する。ダンッと地を蹴った政宗は角の先で入り組んだ道の、その奥にある天守を目指して姿を消した。



◇―◇―◇―◇



「…ねぇ旦那」



その頃。



「本当に此処から行くの?」



政宗が目指す天守、その隣にある二の曲輪の最上階の屋根で佐助が嫌そうにそう零した。その相手は隣の幸村である。



「うむ。頼んだぞ佐助!」

「嫌。やだ。絶対やだ」



元気いっぱいに返した幸村とは違い、佐助は始終幸村を睨みつけ、腕を組んで断固として幸村の望む行動を許さない。拗ねた幸村がむっと口を尖らした。

なぜこうなったのか。というのも、二人は此処より二、三階離れた天守の最上を目指していた。織田の討伐を第一にやってきた武田としては、黒金門から見えた大きな爆発―――天守の爆発は織田信長によるものだと踏んでいた。天守に向かうのは伊達も同じだったが、天守に入るには一の曲輪を回らなければならない。伊達は道なりに先に進んでしまったが、武田もそれでは確実に遅れを取ってしまう。ならばと近道に選んだのが。



「二の曲輪の最上から直接天守に乗り込む…旦那なりに考えたんだろうけどそれ俺様いないと厳しいって分かってた?」



―――この策である。



「…いや俺様いても無理があるって分かって「無理は承知。なれど佐助ならば某を引っ張って行くのも大事無いであろう?」



いやいやいや。何言っちゃってんだ旦那。俺様女子供ならともかく、でっかい槍持ってる大の男なんて重くて運べません!
…と、心の中で佐助は叫ぶ。
ただでさえ間近で見える天守は爆発の影響で火が燃え上がっている。数尺離れた此処まで熱気と火の粉は飛んでくる上、此処と大体同じ高さの窓からも火が漏れているのだから、中の状況もかなり激しいものではないかと思える。…正直早く済ませてこの炎上から立ち去りたい。
しかしそんな佐助の常識を超えて不可能を可能と主張するのが幸村である。



「!佐助、そなたの鳥を借りてもよろしいか!?」

「…はい?」



出た、むちゃぶり。と、佐助の心の中の声は止まない。
如何にも≪たった今思いついたのだが≫といった顔で提案する幸村を見る佐助は、引き攣った顔で既に一、二歩後ずさっている。



「あれは忍しか使えないの…って」



そもそも天守に今、魔王がいるのかさえ不明だ。もしいなかった場合幸村の出番はない。という事は、



「最初から俺様確かめてくればいいでしょ!…てことで見てくるから旦那は此処で少し待ってて」

「…!?ま、待て佐助ー!!」

「うおぁああっ!!?」




何が起きたか佐助には分からなかった。魔王はいないだろうと思いつつも幸村を納得させる為、天守の屋根に飛び移ろうと足を離した刹那。いつもの浮遊感が突然、とんでもない重さに引きずられたのである。幸村が脚に飛びついていた。
咄嗟に佐助が投げた手裏剣は天守の屋根先の鯱(しゃちほこ)に絡まって、力を振り絞り自分の体を引っ張り上げる。天守の望楼部近くの屋根に佐助は跳び乗り、大の男二人が屋根の上に転がった。



「……いったぁ…!!旦那あああ!!」

「すまん…」



必死の形相で幸村を見る佐助の心の中は言わずもがな。しかし自分の頭を摩る幸村の手にはしっかりと二本の得物が握られていて、本人は結果的に願ったり叶ったりだろう。
「…もう…!」と最低限の文句を吐き出し、佐助はきりっと表情を変えて緊張と厳しさを顔に貼り付けた幸村と目が合う。幸村は小さく頷いた。
だんっと待たずに駆け出す。火の粉が二人の周りに旋風し、瓦の足場を蹴り跳ねて、辺りに転がる燃える木屑を横切って。屋根を登ると、火を噴き出す窓の中へ侵入した。各々武器で木枠を壊してだ。
すると一瞬、空気の流れが逆流し、炎が大きく揺れて幸村と佐助を取り巻いた。



「これは凄まじいね…」



火に照らされて、顔に影が踊る佐助は、口元に腕を押し当てながら顰め面で言う。
飛び込んだ場所は廊下の様だった。見渡した城内は自分達がいる廊下に囲まれて、真ん中が吹き抜けとなっている。

此処に来る前、前田夫妻から聞いていたが、望楼部である最上階周辺は吹き抜けではない筈だ。なのに見上げれば、赤く淀んだ空が煙と炎の狭間で垣間見える。
数階ある望楼部内部は完全に階の仕切りをなくし、城の天辺まで筒抜けだった。まるで望楼部内部で大きな衝撃が起こり、穴が空いたよう。



「織田信長は……!」

「此処にはいなさそうだぜ旦那」



辺りを見渡していた幸村は佐助の声に振り返る。吹き抜けを囲う廊下を数歩進んだ幸村は、高欄から吹き抜けを見下ろしている佐助を見つけ、同じく辛うじて手摺の役割を果たしていた近くの高欄に近付いた。
下を覗き込んだ目は、上から崩れたであろう天井やその他―――既に瓦礫となったそれらが燃えているのを想像したが、結果は違う。
其処には大きな暗闇が、その奥で炎のような―――不気味な赤い光が揺れているのが見えた。



◇―◇―◇―◇



≪ゴオォ…≫

―――風が渦巻く音に、時折炎が何かを焼く音もした。それは分厚い外の石垣からか、それとも大分前に通ってきた階段からか。はたまた両方からか、判断がつかないほどに此処の周りでは炎の猛威が跋扈(ばっこ)している。しかしこの階だけはその焼ける熱さも揺らめく明るさも届かない。

政宗は天守のとある階層にいた。
牢を横目に脇の通路を注意深く進む。ほとんど明かりがなく、唯一石垣から漏れてくる微々たる光が先を照らしていた。不明瞭で、暗く静かな空間に自分の草履が擦れる音はとてもよく響く。



『天守の入口にある階段をさらに下に降りろ。牢屋の奥…そこに青琉という女がいる』



浅井の言った事が本当なら。この先に。



「!」



ふと、目に入る強い光。燭台の明かりもなく、蝋燭の灯火もない此処でぽつんと見えた橙色に向かって自然と歩を早める。右手にある刀の鯉口を切った。



「……」



しかしその足は。下を見下ろして、口をきつく閉ざして止まる。
足元で消えかけの炎が仄かに人影を映し出す。

地面に投げ出された手。その指は軽く曲がって動かない―――女の手。
腰から大胆に切れ目がある着物から覗く脚、その太腿には青い蝶の刺青。
知っている。魔王の側にいたその女を政宗はしっかりと覚えていた。
黒の着物。施されている赤黄の模様が赤黒い染みに浸食されていて。その後を辿ると、血染みは腹部から広がっていた。



『私が始末してあげた』



あの声を、



『あなたの代わりに朝倉を討った帰蝶と蘭丸を』



あの言葉を思い出しまた手に力が篭る。
分かっているのに、まだ。

顰めた目を震わせていた政宗は反射的に駆け出した。奥へと、―――自分の急く足音が自分を駆り立てる。



(青琉)



『青香、といったか。…貴様は身内を貶める為に織田に付いたそうだな』



(青琉―――)



『真実を知って絶望に歪む顔、かといって抵抗もできずに弱っていく』



…あなたにも見せたかったわ




「ふざけんな…ッ」



走って、走って、兎に角先を目指して、視界で上下左右に動く暗闇がぼんやりと行き止まりの輪郭を浮かび上がらせてくる。

≪ザッ!!≫

―――と、つい止める片脚に体重をかけた。がっと鉄格子を掴み、全速力だった勢いを殺して最奥の牢屋にぐいっと体を向ける。



「―――!…」



中を見たその目は大きくなった。鉄格子の前で政宗はほんの僅かな時間、硬直する。しかしそれも一瞬。ゆっくりと目を細くすると、片手は腰の鞘に添え、もう片方は持っていた刀をその鞘に収めながら牢屋に足を進める。

青琉は、



「…」



いない。
…いなかった。小部屋程度の大きさのそこには、長政が言っていた鎖が途中で切れ、壁からぶら下がっているだけ。そしてその壁も、壁の周りも血が飛び散ったような跡がある。何よりも目に入ったのは、壁から自分の傍まで視線を持ってきた時の血痕だった。赤い痕が床に散らかって所々に大きな染みを残している。
かなりの出血だった。

それなのに、これだけの血を残しておきながらその主が何処にもいない。

政宗は散らばっている血痕の中でも、特に大小の血痕が密集している奥まで進むと、片膝を付いてしゃがむ。そして右掌を乾いた大きな血痕の上に乗せ、がりっと床を掴んだ。



「…何処だ」



何処に行った、青琉―――ッ!!…



◇―◇―◇―◇



ずばっ!と鋭い音は肉を切り落としたものだった。人体から赤い液体を放出させ、ビチャッと顔に飛んできた斑点模様が頬に一筋、涙の流れた跡のように残る乾いた血の上に走った。
ズシャッと血を巻き込んで体が硬く凹凸ある岩肌に倒れ動かなくなる。



「…」



≪ピチャッ…≫

尖った岩の先から水が落ち、ぶらんと下げた手の刀から血雫が落ちる。
どこからか吹いて来た風が、俯いた顔を隠す長い鉄紺色の髪を靡かせた。
暗闇の中に黒光りする岩肌が照らすのはゆっくりと上がる顔。顕になった唇が小さく呟いた。



「…―――あお、か」

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