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―――ザッザッザッ。己の足の音がよく聞こえる。
降りてくる敵を退け、石段をひた走り、幾許の時間が経っただろうか。
石礫に砂煙に兵の喧騒。しかしそれらは大して頭に入って来ず、別世界で繰り広げられている出来事のように視界をちらつくだけだった。
それよりも、この距離が非常に長く感じる。
確実に上っているのに息が早く短く切れて足元も見えない。剣を持つ手も重い。目線を上げても真っ黒で、先が見えなくて。
『―――…長政様』
あの日がとても遠い。
『お花…ありがとう…』
あんな嬉しそうな顔は初めてだった。卑下するか泣くかのあ奴が、違う顔をすると分かって気が緩んだのかもしれない。
『大丈夫…だから…』
だが、それを塗り替える涙だった。容易く振り出しに戻され今までになく。
『…ッッ、』
打ちのめされた気分だった。だから、
『長政…様』
今度は。
「…よお、浅井」
「!」
長政は目を大きくした。隣を見ると、政宗が己と同じ速さで階段を上っている。
「貴様、いつからそこに…」
いち早く長政の声に続いたのは、ざしゅっと人を斬る音。追って来ていた織田の兵が振り向いた政宗に斬られたのだ。
「アンタがぼーっとしてる間だ」
「…」
目を細め、薄ら笑んで長政を振り向く政宗。足を止めていた長政はピクピクと眉と目を震わせ、目下の政宗を見下ろしながらも口を引き結んで何も言わない。
「いつ私がぼーっとしていた!?」
「Ahー…、ずっとだったな」
「貴様…そうやって私の揚げ足を取るか!」
「おいおい…アンタと言い争いなんてしてる暇ねぇだろ」
政宗は刀を仕舞って石段を上り、今にも斬りかかってきそうな長政を気にも留めず追い越した。その長政は如何にも不服そうに眼を顰め、既に政宗がいないその虚空を見つめて動かない。
「時間がねぇんだ、此処はrest timeといこうぜ」
ふと足を止め、政宗は段下の長政を振り向く。
「信長の野郎をぶっ飛ばす―――行き先は同じ、だろ?」
「…」
―――鋭かった。その目は鋭く光っていた。
まるで何でもないように、大事なものを人質になど取られていないというように。ただ真っ直ぐとやるべきことを見ている。
いくら東国で急に力を伸ばしたというこの男でも、結局は織田には及ばないと心のどこかで思っていたのだ。斯様な若造にと鷹をくくっていたのだ。
そんな己がとても大人げなく見えた。
「…貴様はよく分からない奴だ」
それは言葉にはしない。しかし。
「なれど…」
と、気付けばそこで言葉を変えた自分がいた。
「織田に刃を向ける者達が潰し合うのは―――悪やもしれんな」
―――周りを少し見ようと思った自分がいたのかもしれない。
政宗は長政をじっと見下ろしていた。目線を斜め下に落としていた長政が直ぐ政宗を見上げる。
「いいだろう、教えてやる」
走り出して擦れ違い際に「来い」と発すると、政宗はその後を走り出す。
長政の足取りは先刻とは違って力強い。
長政は並んだ政宗には目を向けず、石段の頂上に顔向けたまま口開く。
「一度しか言わぬ。よく聞け」
―――この石段を登ると、一の丸・二の丸・天守への要門…黒金門がある。そこをくぐり、道なりに進んだ分かれ道を右に行け。次も右だ。さすれば奥に一の丸が見える。あとは左の石段を登れば天守地階だ。そして天守の入口にある階段をさらに下に降りろ。牢屋の奥…そこに―――
「青琉という女がいる」
「…」
「…」
「…」
「…なんだ」
「いや、随分親切だな」
あまりに急で、予想に反してするりとそんな報せが落ちてきたものだから、驚きを通り越し政宗は鼻を鳴らして笑った。
しかし長政は険しい顔のまま応える。
「ふん…信じるか信じないかは貴様の自由だ。私の目的は―――「アイツは」
突如被る言葉。長政は思わず見た。
「アイツは―――生きてたか?」
「…」
その真剣な、決して笑ってはいなかった横顔に言葉を遮った事への言及は止まる。
「…ああ」
生きていた。
『お市がこうならないよう、お前がしっかりやる事ね』
魔王の妻が牢の奥の青琉という女を見せてそう言った時には少なくとも。半分磔にされたような状態で気を失ってはいたが確かに生きていた。
「…」
そして再度思う。市は決して斯様な目に合わせられぬと。
ギリッと強く手を握る。
髪と兜で隠れていた政宗の目。ゆっくり上がる顔と共に、
「―――OK」
彼は口の端を上げて笑う。
「それだけ分かれば―――十分だ」
その時。風を切って空中からびゅんと何か向かってくる。二人は一斉に顔を上げた。
◇―◇―◇―◇
「―――…はっ!」
同じ頃。幸村は石段の遥か下方にいた。
「く…邪魔をするな!!」
というのも薙ぎ払っても薙ぎ払っても、その屍を越えて湧いてくる織田の雑兵に掴まり中々抜けられずにいたのだ。そんな時、段の先で小さな爆発が見えた。
(あれは政宗殿の向かった方向―――)
ぐっと目を顰め、敵を薙ぎ払うと幸村は階段を駆け上がる。
◇―◇―◇―◇
「―――…、」
煙が上がっていた。地面には半分に斬られた巨大な矢が数本落ちていて、シュウシュウと焦げた音が鳴っている。
刀持つ右腕を広げて、強い眼光で政宗は見上げていた。石段を上りきったそこで長政も両手で柄を握り、顔を防御するように刀身を翳している。足元には同じく壊れた矢が落ちていた。
「what?」
「こらぁ!」
眉間を少し寄せた政宗は返ってきた声の、その非常に場に不釣合な色に目を細める。目の前の大きな門の上にいる人影に目を凝らすも、まだ煙が晴れずによく見えない。
そして漸く、その姿が見えてくる。
「お前…よけてんじゃねーぞ!!」
(ガキ…?)
紫を基調とした短い袴と袖なしの着物を着た子供だった。
また前髪は額が見えるように髪紐で結んでいる。
「魔王の子め…此処の番を任されたか」
「魔王の子…」
武器を下げた長政の言葉で思い出した。…あれは桶狭間、今川の時だ。今川を信長が殺ったその下で、
(…いたな)
偉そうに踏ん反り返っていた子供がいたのを思い出す。
「あの時のガキか」
己を射竦めた信長と射竦められた苛立ちで一杯だったあの時は気にもしていなかった。
目の前で本物の今川に鎌を突き刺して、笑って逃げた明智―――。
『―――あなたのしてきた事は全て!無駄だったのですよ!』
不意に思い出す。
「…?」
長政が政宗を見遣った。少し顔を下げて強く握る手。小さく「shut…胸糞悪い」と聞こえたのは聞き間違いではないだろう。
しかしそれも束の間、政宗は顔を上げる。
「…おい、子供はおとなしくおうちに返って寝てな」
「蘭丸はこどもじゃない!!」
まるで兄弟喧嘩のように戦いが始まった。睨み据える政宗に向かって一度に何十本もの矢を蘭丸はひたすらに連続で放つ。地面を埋め尽くすような矢を政宗は全て斬り落としていた。刀を持つ手を目にも止まらぬ速さで動かし、体ひとつ―――視線のひとつもぶれずに叩き斬る。
同じく斬る長政は途中で一歩退いて、逸れてきた矢、数十本を断った。
「全く…末恐ろしい子供だ!」
ただの弓矢ではなく、紫雷を纏う矢。最初の巨大な矢は爆筒でも付いていたのだろう。あれは今のように切り落としても爆発した。
数で攻撃してくる今も厄介だが、爆筒が飛んで来るのも堪ったものではない。
(面倒だな…)
長政は矢を斬り伏せながら、目頭の皺を深くしていた。
ここで時間を取られるわけにはいかない。
「のこのことアイツを取り返しに来るなんて…身の程知らずな奴!
使えないそいつと一緒に―――死んじゃえ!!」
しかし蘭丸がそう叫ぶと、さらに増えた矢が長政も巻き込んで降り注いだ。
紫の光を纏って落ちる様はまるで流星の雨。既に地面を埋めていた弓の草原をさらに繁らせ、足場が無くなりそうな長政は動きを鈍らせる。
だが政宗は一瞬の、蘭丸が弓に矢をかけた隙に飛び上がった。その目の前に浮かぶ。
「な…!」
「ガキは…」
ぶんっと両手で一刀を振り上げた。
「引っ込んでな」
「う…わあああああ!」
刹那、はっとしたのは政宗だった。半歩後ろに退いた蘭丸の後ろから此方に伸びた白い腕、見えた着物の袂。その手の銃口がドンッと火を吹く。
咄嗟に刀を銃弾の軌道に持ってきて、ガンッとぶつかると銃弾は逸れた。
しかし構えが少し崩れた政宗はそのまま落下する。だんっと地面を踏み付け、刃を突き立てふらつきを防いだ。下げていた重心を中腰まで上げると刀を抜いて見上げる。
「子供を虐めるのはよしなさいよ。独眼竜」
言葉とは裏腹の何処か甘ったるい声。
銃口からは煙が上がっていた。蘭丸の後ろに立って、彼が後退りで落ちそうだったところを支えている。
政宗は険しくした顔で、ただ一つ口元だけに笑みを刻んだ。
「Ha…会いたかったぜ。―――アンタにな」
―――風が巻き上がった。濃い緑の袴が膨らみと萎みを繰り返し沢山の明暗を作る。前腕には茜とくすんだ金色の袖が通り、左上腕は網が掛かり、右上腕は色白な素肌が肩口まで見えていた。夕暮れのような茜色の着物は赤黒い空によく馴染んで其処にいる。
頬を、首の付け根まである揃った長さの髪がサワサワと揺れて。背中を腰まで覆う髪は紐で束ねられていた。
左に流した鉄紺色の前髪の下、枯茶色の目を細めて青香は妖艶に笑った。
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