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ごおっ…と。風が地上と繋がる階段から牢の連なる通路を吹き抜けて、その軌跡を追うかのように、一定の間隔で置かれていた灯籠の火が消えていく。
片側に並んだ牢の前を通った風は、一番奥の最後の灯籠を消すと、行き止まりの壁にぶつかって牢内に流れ込んだ。
―――鉄格子の間をすり抜け、青香と青琉がいるこの牢屋に。
青香の垂髪をさわさわと撫でて、牢の壁高くに掲げられている蝋燭の僅かな火種を揺さぶる。不安定に照らされたそこで二人の女の影を揺さぶる。
―――鉄の中に嵌った男女の絵がゆらゆらと照らされていた。
「―――…」
その鉄の形と同じ楕円の小さな絵が、そこにある二人の姿が青香の行動を全て奪っていた。
膝を付いたまま体は前のめりになって、掴むものをなくした手は青琉の首の上でただ静止し、顔だけは床にあるそれに向き合っている。目を震わせて、逸らせないでいる。
(私はこの衣を)
知ってる。
『―――なんだこの着物は…見た事ない』
大きな襟のついた短めの着物。腰より下を覆っていた筒状の衣。絵の中の彼女は同じものを着ていた。―――幼い青琉が倒れていた時、着ていたのと同じものを。
いや、正確にはあの時の青琉は自分と同じくらいの身丈だったから、衣に殆ど埋まっているような状態だった。
…他の者に知れる前に、この鉄の塊以外は父上と火に焼べてしまったが、今の青琉が着ていればきっとこのようなものだろう。
ドクンドクンと、心臓が勝手に高鳴った。
そしてその絵の男も、襟の付いた薄手の見慣れない白い衣を着ていた。
前開きで、鎖骨辺りまで肌が見えていてその下の留め具が一定間隔で衣の合わせ目に列を成している。何より驚くべきなのは右目を白い布で隠している事―――見た目は隻眼である。肩にかかる程度の髪の長さ、髪型からこれもあの男が着れば、きっと。
「……」
ドクン、ドクン、ドクン、ドクンとより心臓が騒ぐ。
鉄紺色の長い髪を下ろした女が不服そうに腕を組み、己の頭をくしゃりと掴む男を睨み付けている絵。それをその男がどこか楽しそうに見下ろしている、絵。…まるで。
「…………」
(どうして?)
動悸が止まらない。手が震える。
ふと二人の姿から視線を逸らした。すると絵がないもう片方の内側にそれは彫られてあった。
【2010.7.8】と。
≪―――ズキンッ≫
「ぅ…!」
突然だった。頭を抱えて後退る。
何とか中腰で立ち上がる事は出来たが、刺すような痛みが青香の頭を襲い、青琉から一歩また一歩と離れた。
『今日が何の日か覚えてるか?―――…』
それは急に流れてきて、見開いた目と共に吸った息が詰まる。
『今日は―――』
白い眼帯姿の男は、振り返って笑った。
しかし木漏れ日の様に淡い景色は、同じ声によって違う光景へと一変する。
『―――…【青琉】、【青琉】ッ!!』
脳裏に浮かぶ何も見えない黒の世界で、必死に名を呼ぶ。
(なによ、これ…)
真っ黒な視界は私の意識とは無関係に、その叫び声の中で瞬きをした。ゆっくりと黒が白を―――ぼんやりとした光を浴びてまた黒に覆われる数回の後。
私の頭の中で、私じゃない【誰か】の視界が【青琉】と呼ぶ声に応えようとする。
そして朦朧と、開けた視界は次第に輪郭を取り戻す。
【あの男】を―――その目は細く、歯は噛み締められていた【独眼竜に似た男】を見ていた。
ふとその顔が苦笑に象られる。
『何、』
してんだよ―――…っ
「っ!!」
青香は目を見開いた。ずっと痛みに耐えて、目をぎゅっと閉じていたのが、急に消えたのだ。
「…え?」
…それだけなら良かった。だが同時に自分の目から涙が流れる。
いつの間に溜まっていたのか。両目が涙で溢れ、視界を揺れ動かす雫は次々と青香の頬を伝って床に落ちる。
(なに、これ……ッ)
戸惑った。袖の口で乱暴に涙を拭っても、止まらない。
何度も何度も溢れてくる。
「どうして」
理解できなかった。これが何なのか。
ただこんなにも、苦しい。
ただ悲しい気持ちで覆い尽くされる。
「嫌…っ」
分からない。分からない。
目に入る青琉の姿。動かない体。
私は、悲しくなんてない。
『すまな、かっ………た…………―――』
―――悲しくなんかない!!―――
≪ドッ!≫
力が抜けて勢い良く膝を付いた。そのまま倒れそうになったが、両手で何とか自分の体を支える。
「はぁ…はぁ…」
何、なの。
―――真っ直ぐ床と垂直に支える腕が震える。爪を立て、ガリッと床を引っ掻くように掴んでいた。
理解出来なかった。あれを見た瞬間から体が硬直して、頭が痛くなって。ふらふらとあの絵から離れるように後退して。終いには立っていられなくなり、こんな。
「はっ………は……」
呼吸は落ち着いてきて、やっとゆっくり立ち上がれた。
その顔はまだ俯いて、体はゆらりとふらつく。
「悲しくも…ない。後悔も…ない」
知らない。私にはあんなもの知らない。
「遅れをとるな!」「城を守れー!」と、上の階や石垣の外からも喧騒が聞こえてきていた。
そうだ。これからなのだ。
こんなことで止まるのは許されない。
たとえどんな受難があろうとも、どんな不幸を受けようとも。
「―――計画の続行よ」
這い上がるように顔を上げて、鋭い眼光を宿した青香は低くその場で呟いた。
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