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「…」



同時刻。青香達のいる牢のはるか上―――安土城天守は暗く、赤に照らされていた。
暗雲渦巻く空から入ってくる光は少なく、唯一外に開けた桟唐戸からほのかに望楼部内の天守閣最上階を照らす。
高欄と廻縁に囲まれた物見櫓である望楼部の中で、織田信長はその妻・濃姫の酌を受けながら外を見つめていた。―――人の頭蓋の盃を手に、赤と金の大きな椅子に腰かけながら。



「上総介様」



酒が頭蓋の眼球へ達する前に、徳利の口を離した濃姫は満足そうに笑いかけた。



「今頃青香は青琉を処刑し、その首を持って此方に向かっているでしょう」



濃姫の言葉が終わる前に酒を飲み込んだ信長は、再び頭蓋を彼女の前に出す。それが合図のように、徳利を当てて再度継ぎ足した。
そして溜まっていく酒を眺めて、濃姫は少し眉を顰める。



「青琉…哀れで愚かな娘―――。上総介様のお傍に置かせて頂きながら、その恩を忘れ、刃を向ける等。分かってはおりましたが、」



青琉の自然治癒。それは織田の各々が既に知るものである。
それ故に手を下せないのが腹立たしいだけではなく、十数年前に突然光秀が連れてきた、幼子だった青香の持ち出した案に織田が乗せられているのが腑に落ちなかったのだ。
しかし一番そうであろう信長は一向に動じていなかった。



「…余は寛大ぞ。あれも一興よ」



全ては光秀があの姉妹を連れてきた故の茶番。

あの日。血に塗れた小童の一人は光秀に手を引かれ、もう一人は片腕に抱え持たれて織田に来た。血塗れの娘は自らの家を滅ぼし織田に志願してきたのだ。
そして生意気にも織田を巻き込んだ一つの復讐劇を語り、光秀の腕でぐったりと抱え持たれている妹を絶望と復讐に突き落としたいと言ってきた。幼いながらの馬鹿げた興に、悪くないと乗ったのだ。

「流石上総介様にございます…!」と笑みを取り戻しうっとりと見上げる濃姫は、さながら夫である信長に陶酔しているも同然だった。会話の途中で継ぎ終わった酒を、信長は口に持っていく。



「青香…あれも愚かな女です。よもやその首、妹に並ぶ事となろうとはゆめゆめ思ってはいないでしょう」



喉を鳴らして、髑髏の盃と共に上がっていた信長の顔は満足気な溜め息と同時に正面に戻った。



「余に意見したその罪…死して報いる他に無し」




…なかなかの座興だった。だがもう長年に渡る姉妹喧嘩にも飽いたところだ。



『信長様、どうか私をお傍に使わせて下さい』



光秀が連れてきた幼子が最初に発したあれも、そろそろ意味をなくす頃である。
愚かでありながらよく働き、己を楽しませた。とはいえ所詮は出過ぎた真似だと―――己が言わぬを良い事に好き勝手した相応の報いを受けさせなくてはならない。



「…」



しかし不意に信長の目が細められる。



『織田信長ああッッ!!』



あの時の青琉だった。

本当ならば己の手で死を与えなければ気が済まない。
あの斬撃程度では何の足しにもならない。



「…ふん」



しかし今となればどうでもいい。
あの女にとって一番の絶望は青香。最悪の事実をもって貶めるあれを最後まで利用する。
青琉が為す術なく悶え苦しんでいるのを見られないのは残念だが、その首があともうすぐやって来るのだから悪い気分ではない。
…何より最後にはあの竜に見せつけてやるのだ。脳を抉られ物言わぬ髑髏となったあの女の盃で酒を飲む己の姿を。

最高の興だと思った。伊達の小僧の隻眼がどんな色をして、どのように憤怒に揺れ叫び、絶望を見せるか、想像するとさらに血が湧く。
だからこそ。

ぐしゃっと手にあった髑髏を握り潰した。
破片となって残骸が床に飛び散る。



「玩具ごときが…我を待たせるか」

「信長公」



その時だった。暗闇の中から現れたのは光秀だった。闇と半分同化したような姿で、信長の前に近付き膝を付く。



「外の準備は整っております。間もなく伊達武田双方が追手門へと差し掛かるでしょう」

「濃」

「はい」

「行けぃ」

「はっ」



徳利を椅子の側に置き、濃姫は走って暗闇へ消える。光秀とすれ違う刹那、その強い瞳で彼を見下ろした。

信長は椅子から立ち上がると、一二歩横に歩いた先にある開いた桟唐戸から廻縁に出て外を一望する。
此処からは一の郭も二の郭も、その下の黒金門も、そして追手門もよく見える。高い石垣で構えた追手門よりさらに遠くの湖がこの城を囲っている。城外からの侵入を阻むように、一本の橋だけが架かっている湖だ。
それも超えて、枯れた森の中から大きな土煙を目に捉えた。青と赤の旗である。



「光秀」



腕を組んで仁王立ちになった信長は目だけで斜め後ろの光秀を睨む。



「貴様もゆけぃ…。一つ目の竜を除いて他に用はなし」

「クックッ…」



信長は目を顰めた。光秀が立って自分の前から姿を消す様子もなく、片膝を付いたまま長い髪を揺らしている。



「貴方は竜の鱗を剥がすに飽き足らず、その身を刻み、絶望のうちに殺そうというのですか…」



楽しそうに、



「実に―――素晴らしい」



光秀が言った後。直ぐにドオン!と銃弾が放たれた。顔を上げていた彼の頬を掠める。
背を向けたまま、片腕だけ捻った信長の銃口が火を噴いたのだった。



「慎めうつけが」

「ククク…」





≪カランッ…≫




「…実に残念で最高の気分です」




「―――な、…に」



その時、青香はまだ牢にいた。ふと音を立てて床に落ちたものに目が行ったのだ。
青琉の首から手を離しながら上体を起こそうとして、懐から落ちた鉄の塊が開き、今までは見えなかった色彩がぼんやりと見える。



「……ッ、……!」



しかしはっきりと焦点があって、顔が引き攣った。



「―――誰よりも先に私が見れるのは」



そう続けた光秀と。



「―――…」



同時刻、政宗の目に映る一人の男。安土城追手門前―――湖とそれに架かる橋を前にして、門まで後数町前にして立ち塞がったのは紅白の鎧に白銀色の兜の男。

光秀は笑う。



「…貴方の!血肉なのですから!!」
「ここから先は一歩も遠さん!」
「ッ…これ………」




叫んで信長に向かって走り出す光秀。
刀を向ける近江浅井家当主・浅井長政。
真っ二つに割れたように開いた中身に、はまっている小さな絵を見て言葉を失う青香。

三者三様の時。
青香の見る絵には、精巧に出来た絵には暗茶の髪と鉄紺の髪の男女―――政宗と青琉にそっくりな二人が写っていた。

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