53
「嘘…だ…、」
薄く笑うその表情、細い目―――あの鋭い眼光。
此処に居る筈がない。
私の目の前に居る筈がない。
そんな事分かっているのに。声が掠れても、その言葉は出ていた。
「うっ、」
反射的に後退ろうとして、ぐいっと引かれた髪。上半身が浮くくらい高く引っ張られる痛みに、強く瞑った目を少し開けば、ぼやける視界が段々と輪郭を形作る。変わってはくれない。
―――独眼竜のまま、変わらない。
「…」
そんな時、頭上より高いところにある僅かに開いた口が言葉を紡いだ。
『―――青琉』
「―――ッ!!…、」
―――そう名前を紡いだ。それだけで動きが止まり、
「止、めろ…」
分かっているのに。これは幻だと、青香が見せる戯れだと理解しているのに。精々出てくるのがそんな言葉だけで。
―――しかし、突然ぱっと離された手に唖然とする。
「―――…ふ、」
含み笑いが聞こえたと思った刹那。頬を強い衝撃が襲い、どん!と床に叩きつけられていた。
「あっははっははは!」
「…ッッ、」
蹲っていた。腹を抱えて笑う青香の姿が、既に元に戻ったその姿が視界いっぱいに映る。
「最っ高ね青琉。さあ、もっと見せて。もっと」
―――あなたの苦しむ様を私に見せて。
「……」
痛い。
「ふふっ」
何が、痛い。
「あははははっ!」
心、か。
「私が憎い?青琉」
過去は、後悔はもう変えられない。
「あなたをこんな目に遭わせ、大好きだった家族も奪い、ずっと騙してきた」
ならば。
「あなたの一生を滅茶苦茶にした私を恨まないわけないわよねぇ?こんな理不尽、許せないに決まってるわよねえ?」
これが私の選んだ道ならば、
「―――…私は、」
『忘れてくれ』
あの言葉に意味を持たせなければならない。
―――力を振り絞り地面に手を付いて、上半身を起こす。まだそんな力が残っていると思わなかった青香から、笑顔を消すには十分だった。
青琉は顔を下げたまま続ける。
「私は…愚か者だ。ずっと…何も知らず、…自分は……幸せだと、…思っていた…」
『青香ー!』
「幸せな過去だけを………信じていた」
『私と一緒に鞠付きでもしよっか!』
―――ぐっと手を、握り締める。
「…だが、」
『―――ッ』
「青香を……苦しませていたんだな…、一族の平和も、乱した…。だから…青香に恨まれるのも…頷ける」
刺された足の感覚が、いつの間にかない事すらどうでもいいくらいに。
「それ、でも…!」
がりっと、床を掴むように引っ掻いていた。それで体勢が崩れ、また床に伏す。
震える全身。だが床に爪を立てたまま、強く握り拳を作る。
「それでも青香を…恨んだ、事は、…一度だってない。………私、は…」
『あ、青香ー!』
―――手を振ると振り返ってふわりと笑ってくれる、いつも私に応えてくれる青香に何度も救われた。
落ち込んでいたら何も言わずに抱き締めてくれる。
「…そっと、後押し…して…くれる、青香がいたから……」
『分かる?青琉。あなたは青琉って言うの!』
無知な世界で突然目を覚まし、何もかもに警戒していた幼い頃の私は。
「心を開いて………いけたんだ」
『……』
どんな傷も己の意思に反して直ぐ治してしまう。いや、治ってしまう。自分が普通じゃない事は分かっていた。
『……っ、』
怖くて。
いつか一族皆に不幸をもたらすんじゃないかと。そうなる前に、
「自分……なんて、消えてしまえば…いい。思った…時もある………。で…も…」
『青琉ー飯だ!』
『―――父上母上!青香ー!』
「出来な、かった…。こんな私を……見放さず、置いて…くれた………青香…父上…母上……………皆、が」
私の全てだったから。
「大好き………だったんだ…っ」
例え本当の姉妹でなくとも、親子でなくともよかった。
地で震えていた拳はすっとその力を緩める。
「だが…」
結局。
「私は…無知な、……まま…………だったのだな…。…恩を、受けても…本当、の…返し方を…………知らな、かった…」
困っている時、苦しい時。気付いてそっと包んでくれた青香。そんな温かい日差しのような青香が私の記憶の青香だった。
私に恐怖して、私の秘密を知ろうとして刃向けてきた青香を…その一時の出来事の理由を知ろうとしなかった。
『青香…私の体、透けてる…!怖い、怖いよ…!』
『―――ッ』
あの時の青香の血の気が引いた表情を、手の震えを。もっと重く受け止めていたら。
自分の事でいっぱいになっていなかったら。
まだ先は違っただろうか―――…。
「…」
「全て………私の、…所為だ」
『青琉ー、朝餉だぞ!』
『起きたらお食べ』
『ほら、父上を困らせては駄目青琉』
もう戻らない。
『あ…!あぁ…ッ!!…』
『見る……な…』
もう変えられない。
「だ……から…」
私一人の命で済むなら。
それで青香の気が済むのなら。
―――既に痛みという感覚は麻痺していたのか、あまりない。今までの葛藤が嘘のように落ち着いてきて、とても楽に笑えたんだ。
「―――私を好きに、してくれ」
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