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『青琉』



≪青琉…―――≫

焦点が合わずはっきりと見えない中でその人はそう言った。二回目に聞こえた言葉は私の中で何度も残響する。怠惰で包まれていた全身が、音を拾って、漸く視覚を正常に機能させていった。色が混ざり合ってぼんやりとしていたものが、段々と引き締まってちゃんと見えてくる。

―――私の顔を覗き込む一人の少女の顔を。



『分かる?青琉。あなたは青琉って言うの!』



明るくて優しそうな声。それが私の世界の、



『…―――!』



始まりだった。

―――簪が折られ、思い出した記憶。
あの時の私は何も覚えていなくて。襖から透ける外の明かり、壁の掛け軸、そして私自身が横になっている白い褥―――兎に角その時は、目と耳と肌で感じるもの全てが名前をもたない、…いや名前を知らない未知のものだった。



『…―――青琉ー!こっちこっち』



だから私には何も、なかった。感情というものの表し方も、自ら好奇心を持って行動する事も。
―――私自身が何者なのかも。

青香が私の手を引いて青い一面に浮かぶ雲を、庭木で囀る小鳥を、土の上を歩く虫を―――そしてその地で生きる人達を教えてくれたから。感情、物の名前―――笑う事を、ごく当たり前の事を一から教えてくれたから。
…私は興味という感情を知り、言葉を覚え、人に話し掛け、皆と同じように剣を学びたいと思ったんだ。

でも。



『父上、人が倒れてた』

『なんだこの着物は…見た事ない』



私の知らないところでそれは起こっていた。



『今日からこの子の名は青琉。お前の妹だ』



畏怖と不信と動揺。あの時の私は本当に何も気付いていなかった。感覚に疎くて、感情の名を知らなくて。



『…同胞でもござらぬのに何故瓜二つのお顔立ちか』

『さぁ…、斯様な者をお連れになられた青香様の気が知れますまい』

『こらっ、慎め』



庭の隅から聞こえる家臣のひそひそ話の意味もよく分からなくて。

ものの名を知り、事情という裏の動きを理解出来るようになって、刀の腕も上がると次第にそんな声も消えていったから。真に居心地の良すぎる場となっていったから、当たり前のように身を置いていた。



『青琉ー、朝餉だぞ!起きろっ』

『ん……父上ーまだ寝てたいよ』

『ほら、父上を困らせては駄目青琉』

『だって青香ー』

『今日くらいいいじゃありませんか、…昨日の稽古は今までで一番難儀でした。…この子はそれを乗り越えた。―――朝餉は蓋をしておきますから、起きたらお食べ』

『やったぁ!母上、ありがとー!』

『全く…お前が言うなら致し方ない。今日だけだぞ!』



自分が本当の子じゃないと知りながら、本当の子のように目をかけてもらう事に幸せ以外の何もなかった。父上、母上と呼んで娘同然にその輪の中にいて―――青香も困ったように頬を緩めて笑っていて。どんな不安も大丈夫、―――そんな根拠のない楽観的な考えで生きていた。



『わーい!父上ありがとー!』



だからそのままでいたかった。あの時のように“周りから向けられる言葉や目線も怖くない”―――父上も母上も青香も、それに私の世話を心から見てくれる女中達もいる。だから大丈夫、何があっても一人じゃないと。そんな平和な毎日だけ思い出したかった。

―――これ以上何も知らないまま、自分を知らないままでいたかった。



『見て青琉』



でも。青香に突き出されたそれを見つめただけで、



『あなたの記憶…やはりあの時のものと関係あるのね』



体は強張り、言うことをきかなくなって。痛みは酷くなり、私は私の知る自分じゃなくなっていく。



『また治っちゃった…』



自然治癒する自分への恐怖と、



『傷が忽ち治ってしまわれたのだとか』

『なんとまぁ…同じ人とは思えませぬ』



再び陰でささめかれる恐怖を思い出す。私が普通の人間じゃないことを、



『私の体、透けてる…!』



思い知らせて。



『―――ッ』



青香も巻き込んで―――。



『行ってはならん青琉!!』



待ったをかける時間も与えず、奪っていく。



『あ…!あぁ…ッ!!…』

『見る……な…』



消えていく。

―――幸せも平和も皆、燃えていく。

なぜ。どうして。なんで。

何が。

―――私と青香を結び付け、壊していった。



『―――異なる時世、先の世から来た人間よ』



そんなこと有り得ない、のに。
―――有り得ないことが有り得ない。私の存在がそうであるからこそ、…青香の言った事が本当なら。私が未来から来た青香の生まれ変わりで―――子孫なら。



『分かる?青琉。あなたは青琉って言うの!』
『…同胞でもござらぬのに何故瓜二つのお顔立ちか』
『私の体、透けてる…!』



繋が、るんだ。


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