51

「―――青琉」



その声が私に現実を突き付ける。目線を上げると、焦点が定まらない視界が段々とはっきりして―――冷たく笑う青香がいた。
青琉は顰めた顔で見つめて、浅い呼吸を繰り返す。
足を刺されたくらいでと普段なら思う自分の、治らないことを知らなかった自分の甘さ。それが今更、こんな形でよく分かって。痛みと血の止まる兆しがない時間が続く。

青香は青琉の前にしゃがんで、首を傾げてほくそ笑んだ。



「不思議だと思わなかった?どうして傷が治るのか。
普通なら死んでしまうのに生きているのか」

「……、」



下がった顔で青香の足元をただ見つめて聞いていた。



「どんな兵でも戦に身を投じる過程で必ず体に傷を負う」



『痛っ…』

『大丈夫青琉!?』

『ぁ…』





「でもあなたは戦どころか普段から、傷が治った」

「…」

「私から受ける傷以外消えるなんて随分と都合のいい体だと思わない?」



青香の笑みは最終的に消えていた。反論を受け付けない暗い枯茶色の瞳は、見えない青琉でも分かるような、息すら許さない圧があって。目を揺らし、動くことも出来ず、首を汗が伝った。



「…―――ふっ。まぁ外れ者には関係の無い事だったわね」

「ッ…、」



しかしその緊張感は青香の嘲笑で崩れ、漸く青琉は手を握る。



『このアマ…人じゃねぇ…!!確かに、斬ったのに…もう傷が治りやがった…!?』

『―――……あ!?な…何故傷が治って…!?ひい…、く、来るな…この…!化け物がああああ!!』




道中襲ってきた賊に、暗殺した他国の領主。賊においては水浴びの隙を見て勝手に手を出してきながら、よけ損ねた私の腕を見てそう言った。領主においても死に際の悪あがきに斬り付けてきて、最期にはそんな捨て台詞を吐いた。
私がまだ織田に来て間もない頃の話。記憶に残るような傷を負わされるのもそれ以来ほとんどない。
だから目を瞑ってこれた。まだ織田を信じていた頃は。



『あなたはいいですよねえ、刺されても
―――死なない体なのですから』




だが。久方振りに斬られる感覚を思い知らされ、



『あなたは―――絶望しても死ねない…』



嫌でも思い出す。私は。



『塗り薬だ。今より痛みは引くだろうよ』



人と同じものを必要としない。―――外れた者なのだ。



「―――…ぅくっ…はぁ、は…ぁ…!」



立ち上がろうとするも刺された左腿が悲鳴を上げ、肘を突く右腕が震えてうまく体を起こせない。
こんな時どうすればいいのかという考えを必要としなかった私は、為す術なく床で藻掻くことしかできなかった。



「ずっと辛かったのでしょう?一人だけ生き残った罪悪感と、かといっていざとなると死が怖くて自害も出来ない弱さに。誰かが手を下してくれる事を望んでた」

「…」



『復讐と同時に死んで楽になれたらと、思っていたのではないですか?』



思い出して動きが止まる。



「…よかったじゃない。これであなたも人の仲間よ」



―――顔を伏せる。



「私のお陰で―――あなたは私がいて初めて、全ての痛みを知った”人”になれるの。あなたなら、分かるでしょう?」

「……」



何も、出てこない。言葉にならない。
今の青香には何を言っても届かないと割り切ったからなのか。

―――もう分からない。




「簪、大事に持っていてくれて嬉しかった」



そう言って直ぐそこに落ちている壊れた簪を青香は拾って。



「―――だから教えてあげる」



パキッと折った。片手で握ってそうできるくらい、簡単だった。
青琉は青香の手のひらから零れ落ちたそれを呆然と見つめ、言葉を失う。



『…?―――わあ…!簪だぁ…!!』



この簪だけが唯一残る綺麗な記憶だった。



『青琉は本当、怖がりねぇ』



いつも優しい青香を思い出す、大切なものだった。



『ありがとう』



―――自分の中の大事な何かが、欠け落ちる。



「これは」



と切って青香は立ち上がった。



「あなたの封じた過去を思い出させる為に必要な、―――ただの道具よ」

「…―――、」



瞬きできなかった。目の前にある簪が自分の意識と共に遠くなって、痛みも血も分からなくなって。



≪どくん≫

「―――…ッ、ッ…!!」



それはただの一瞬だというのに、ぶり返すように戻ってくるその感触に。―――自分の左手を真っ赤に染める血に思考を奪われる。
考えれば考えるほど、刀が貫通した足はどちらかからどくどくと血を排出する。

そんな青琉に背を向けて、後ろ手を組みながら青香は元来た道を引き返し、何ら気にする素振りなく口にした。



「…ただ一つだけ誤算があるとしたら、」


あの男。

と、振り返った青香が続ける。



「―――独眼竜」



どくん。

と、大きく心臓がざわめいた。
青琉は目を見開く。
痛みも麻痺したように動けない体も、滲む嫌な汗も忘れてしまうくらい意識を持っていかれる。どくんどくんと胸が高鳴り、締め付けられる。



「あなたはあの男を選ばなかった。そして私の下に来てくれた。…でもどうして」



『父上と母上を―――殺したのかッ…』



「あなたはあの時思い出せたの?」



『行くんじゃねぇ青琉!!』



はっとした。あの時の声は、最後に聞こえた独眼竜だった。そして父上の声とともに、



『行ってはならん青琉!!』



思い出した―――。



「簪はあなたの記憶を封じていた、なのに」


不可解だった。

―――私には千里眼がある。青琉を探して走り回るあの男を見ていた。
声は聞こえない、あくまで見えるだけ。でも何かを言葉にした瞬間は分かる。青琉が思い出した時、あの男は何かを叫んでいた―――。

青香の足が青琉の前で止まり、恐る恐る顔を上げた。下を向いた青香の目は髪と影に隠れていて。



「…独眼竜は―――一体何者なの?」



―――静けさは忽ち知らない人格を、殺意にも似た雰囲気を醸す。
大きく開いた目には私が映っているのに、青香の目にはまるで私の姿等見えていない。

…呼吸出来なかった。それでも空気を必死に集めて、息を飲んだ。



「…―――奴は…、」



その意識を反らすために。



「…関係ない…っ…!」



その全てが己に向くように。



「私が…ぐっ、……巻き込んだだけだ」



言葉を紡ぐ。青香の目がゆっくりと細くなって自分を映したのが分かった。

そうだ、その狂気を向けるのは私だけで十分だ。



「…だから」

『…青琉』



最後。私の手を掴んだあの大きな手を、私が手放したあの男を。

(…巻き込まないでくれ)

もう、私のせいで苦しむ誰かを見たくない。
関係のない者が、傷つくのを見たくない。



『そこに洞穴があった、今宵はそこで一晩超すぜ』



温もりが苦しかった。



『―――…傷の手当、アンタがしてくれたんだろう?』



ただ。触れたところから伝わる熱が、染みて、満ちて。
私が私であるために付けてきた仮面、それを次第に溶かしていく。たとえ突き放そうとも手を取って、迷ったら手を取ってくれた家族のように。

だがもう、十分夢を見た。



「…」



青香は沈黙して無表情に青琉を見ていた。しかし、ふと冷たく笑う。



「独眼竜を、愛しているのね」

「―――!!」



体が強ばった。



『…青琉』



勝手にあの声を思い出して。あの眼差しを、刀を向けた私を見るあの目を、思い出して。
心の臓が早鐘を打ち、動けなくなる。



「愛されるのも、愛するのも苦しい。そうよね。あなたの気持ち、よく分かるわ」



青香はしゃがんで青琉の頬に触れる。



「あなたは優しいから、青琉。
私や父上、母上そして仕える臣下皆から受けた恩に報いろうとする。それがあなたの出した今という答えなのでしょう」



例え好いていても、古くからの絆を取る。―――あなたらしい答え。



「それに免じて許してあげる。独眼竜に手は出さない」

「!!…」



そう言った青香に、下を向いたままの青琉の目に光が戻る。

―――この時の私は忘れていた。全ての思考回路が、再び誰か巻き込む事を恐れて、その事でいっぱいで。
―――自分に迫る狂気に。



「今私が見たいのは、」



青香が青琉の顔に手を添えて、顎を持ち上げた。



「絶望するあなたで十分だから」



刹那。―――ドッ!と体に衝撃が走った。



「が、はッ…っ、」



何が起こったのか分からなかった。
言葉の意味を考える前に、腹に青香の蹴りが入っていた。

ドサッと床を転がる体。腹を押さえて咳き込む。



「くっ…」



顔を伏せて青琉は身を縮こませた。しかし無防備に放った血塗れの左足を青香が踏みつける。



「―――ッッああああぁ!!!」



力は忽ち抜けて、床に這い蹲った。
そんな青琉を見つめて、青香は感情のない声で続ける。



「痛い?痛いでしょう青琉」

「あ…ぁあ…っ、は…っ」

「痛いのは嫌よねえ?私もよ。私はずっと痛くて痛くてしょうがないの」

「あッ…う゛ああッッ…!!」



震えながら青香の足を掴もうと近付けていた青琉の左手は、ぐりぐりと抉るような踏み付けに地に落ちた。



「どうすればいい?どうすれば、」



この苦しみから解放されるの。

そこで青香の声は途切れて、押さえ付けていた足が緩んだ。やっと息が整ってきて、青琉は言葉に耳を傾ける。



「漸く少しはねえ、ましになったの。でもまだ、こんなものじゃまだ足りない」

「はあ…ッ、…はあ」

「…なぜ黙って織田にいたのか。そんなこと、言わなくったって分かるでしょう?」



やっと頭が回転してくる。



「覚えていないの?」



…覚え、て…。

何を。



『―――……めて』



「―――、」



何かが脳裏を掠めた。



『―――…もう止めて、ど、してこんな事するの』



―――それは牢に繋がれ、光秀に斬られ続けたあの断片的な記憶。



『…え?』



でも知らなかったその先が霞む。



『な、んで…?うっ、』



記憶の中で―――光秀以外の影を見つける。

それはよく知った、しかし冷たく嗤う影。



「―――そ、んな」



『―――どうして…!!う…ぁッ…!!』



い、やだ。

あの時も、今も同じことを思って言葉を失う。
私の目の前にいたのは。光秀の後ろで扉に寄り掛かっていた―――私を見ていた記憶の中のその人は。



「―――そうよ」



と青香は胸に手を当てる。



「全てが青琉―――お前への復讐よ」

[ 51/122 ]

[*prev] [next#]
[]



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -