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『―――…青琉』
―――おいで―――
優しい声、私を呼ぶ大切な人の声が聞こえた。振り向いて編んでいた花輪を近くに置くと、とたとたと走る―――まだ幼い私。
『あげる』
『…?―――わあ…!簪だぁ…!!』
差し出されたのは扇に青い玉の付いた簪。暖かな日差しを硝子の中で揺らし、輝く様を幼い私も同じように目を輝かせて見入る。飾りがしゃらんと音を立て、さらに私を喜ばせた。
クスリと笑われ恥ずかしくなるも髪に挿してもらい、嬉しさでいっぱいになる。
『ありがとう』
溢れんばかりの笑顔を浮かべてその名を呼んだ。
『青香』
と。
◇―◇―◇―◇
「―――…」
光と共に、景色が変わる。開いた眼に映ったゴツゴツとした岩、薄暗い明かり。ゆっくりとその先を見ると、黒光りする鉄が何本も突き刺さっていて見覚えがある。―――安土城の牢だった。
(夢…)
冷たく、微かな光しかないこの場所はよく知っている。この囚獄の前の通路、高くに灯された灯籠の明かりだけが景色を照らしていた。私もその道を通った事がある。
(…そうか)
私は信長に…。
思い出す、あの時の感覚。痛み。引き裂くような痛みは何が何だか理解できないまま、意識を失った。
ああ、思い出す。思い出が、幸せな…記憶が。幾つも幾つも浮かんで
『あ…!あぁ…ッ!!…』
「…っっ、」
そんな過ぎし日を壊すかのごとく、あの出来事も流れる。私の信じていたものを黒く塗り潰していく。
だから私は今此処にいるのだと、思い知らせてくる。
―――腕と足の枷は鎖で壁にがっちりと繋がれていて、藻掻いても音だけ鳴らし一向に外せる気配はなかった。それどころか壁に腕を引っ張られながら、体が前のめりの状態。かろうじて膝立ちで己の体重を支えられているが、繋がれて体勢を保っているのがやっとの状態だった。
しかしあれからどのくらい経った?
ずっとこの体勢だったのか、体中が痛い。血の巡りが悪いのか腕も痺れている。喉が渇いて気持ちが悪くて、くらくらする。
何より口の中に残る血の味が、これを現実だと突き付けてくる。
「くっ…」
枷に繋がった鎖を掴み、壁を引っ張って上体を起こした。あわよくば立とうとも思ったが、足枷には厳重にも鉄球がついていて、膝を立てる事すら叶わない。膝を立てる力すら―――なかった。
苦虫を噛み潰したように顔を顰めた。刹那足音が聞こえ、咄嗟に顔を上げる。
「お目覚めですか?」
柳眉を逆立てて射殺すような目で、檻の前にきた男を見上げていた。格子の鍵を開け、近付いてくる間もその刺すような目は緩む事がない。
―――光秀だった。
「どうやら傷も治っているようですね」
穏やかな様子とは裏腹に、どこか歪んだ笑みを浮かべながら奴は私を見下ろす。立てない状況で、嫌でも見下されている感覚が怒りを助長した。
対する奴は驚いた様子も何もなく、まるでこうなる事を初めから予想していたとでもいうようで。
「お前は全て…知っていたんだな…ッ」
ぎりっと歯を噛み締めた。その言葉で、光秀の目が青琉を映して細長くなる。
「一族が織田に仕えていたと嘘をつき、私を引き入れ、恨みを持たせ利用した」
「…」
「謀反をほのめかしたのも、」
『やっと見つけましたよ―――青琉』
「態々追ってきたのも私を嵌める為の策だった」
情けない事を言っているとは分かっている。その可能性がなきにしもあらずと思っていたとも認めている。…認めていながら私は、互いに利用するつもりが私は、奴の方が一枚上手だと思い知らされただけ。
―――自分に本当に。
(腹が立つ)
光秀は、顔を下に向けた青琉を見つめるだけだった。身動き一つせず静寂の中、牢の脇に掲げられている蝋燭が光秀の顔の影を揺らした。そして彼は目を閉じる。
「…そうですね。でもあなたは少し勘違いをしている」
勘、違い。
ドクンと心臓がざわついた。
『青琉』
ドクン ドクン ドクン ドクン
規則正しく早く。胸が鐘を打つ。
息が苦しい。瞠目した目が閉じられない。全身から嫌な汗が滲む。
変わらない声なのに、私を呼ぶ優しい声なのに。そんなわけないと私が信じるその人と、私が知らない彼女が交互にちらついて。何が真実なのか、分からないんだ。
でも、戦えなかった一番の理由は。
「あなたも見たでしょう?―――青香を」
青香、だ。そうだ、死んだと思っていた青香が生きていたから。
「全ては彼女が望んだ計画。私はその通り動いただけ」
「どういう事だ…」
『見る……な…』
「あの時だってそうだ…」
『あ…ッ…、どうして…』
「青香は皆を殺した」
声が震える。認めたくない、そんな事認めたくない。これが本当なら、青香が私のずっと探していた仇。
(そんなの)
認めたいわけ、ないだろう…ッ。
私がずっと信じていた記憶。
織田に仕える一族が死に絶え、復讐を誓い、織田の下で光秀に鍛えられ、隠密から戦の将となった。だから今の私―――復讐を糧に戦ってきた私がいる。この意志は…嘘じゃない。
(でも)
『青香ー今日も出陣しちゃうの?』
『ええ』
『…』
『青琉、そんな泣きそうな顔しないで』
『だってまた傷だらけで帰ってくるなんて…みたくないよ』
『大丈夫、私は死なないわ。信長様にしかと働きを見せて帰ってくる。―――青琉は城の留守をよろしくね』
『…青香っ』
『…ん?』
『帰ったらまた戦のお話聞かせてね!花輪作って待ってるから!』
振り返った青香の微笑んだ顔も、光景も炎が燃やしていく。薄れていく。
過去じゃなくなっていく。
これは過去じゃない、作りものの記憶だと体が拒絶していく。
『あ…!あぁ…ッ!!…』
『見る……な…』
そしてその炎は駆け巡り、
『―――!!!…、』
燃え上がる屋敷の中でただ一人悠然と立つ青香を、返り血に塗れた青香を脳裏に映し出す。
「…っ―――、」
鮮明に。あの時の恐怖を体は意識して、震えている。これが私の
(過去、なのか…)
どういうことなのか全く分からない。なぜ別々の記憶があるのか全く分からない。
だがそれでも、私を抱えて事切れた父上の血の感触は、この手が。
「…っっ―――、」
覚えている。
忘れられない。思い出してから、あの感触を一度だって消せない。体があの時のように血に塗れているような錯覚を覚える。生温くて、鉄臭くて、視界が真っ赤だと勘違いしそうになる。
「―――青香に、会わせろ…」
視線は固く無機質な地面へと落ちた。
「青香なら、」
きっと
「わけを…話してくれる筈だ…」
自分の声がみるみる小さくなっていくのが分かる。自分の心が言葉と矛盾して
―――絶望に染まっていくのが分かる。
「…っく、ははは、ははははは…!あーっはっはっはっはっは!!」
それは突然の狂笑だった。解放されたかの如く光秀は腹を抱え、肩を揺らして笑う。顔を下に向け、口の端を引き攣らせて。持っている二つの鎌が交差しぶつかり合って冷たい音を鳴らす。
青琉は行き場のない怒りを噛み締めたままその場を耐えていた。耐えるしかなかった。
光秀は笑いが収まると、また穏やかな表情に戻って。上げた顔を青琉に向けた。
「いい顔ですね。…信じていた者に裏切られ、それだけでなく殺されかけた」
「…、」
「あなたは小さい頃から彼女といましたからね。だからこその葛藤と矛盾があるのでしょう」
一つ一つが心を刺していく。何かでも、言い返せたらまだましだというのに、何も言い返せない。
「あなたの知る彼女と、新しく知った彼女」
どちらが本物だと思います?
―――呆然として目を剥いた。奴は、この男は。
「お前、私の記憶について…何を知ってる」
明らかに私の何かを知っている。
「答え―――!!「それよりも」
【答えろ】と、顔を上げて青琉が言うより早く、光秀は近寄って目線を合わせてきて。硬直する青琉。凝視する目に構う事なく、光秀は鎧の傷から露になった青琉の肌に触れた。
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