35
≪―――バシャンッ≫
『…アンタは、優しい』
「はぁっ…はっ…!」
ばしゃんっ。
弾けた水の音。泥濘んだ地面に足をとられそうになるも、踏みしめては蹴り上げる。
泥水が草履や臑当(すねあて)から染みて、ふやけた肌が擦れて痛い。水と一緒に混ざりこんできた石くれが肌に刺さって痛い。
いっそ走るのを止めてしまえば進む度に訪れる痛みも和らぐのに、それでも足は止まらなかった。走る力を緩められなかった。
降りしきる音にも劣らない水飛沫を鳴らして走り続ける。もう何度足がもつれて倒れそうになっただろう。それでも今は。
「はっ………は…」
ぱしゃ…ぱしゃ。
切らした息は次第に遅くなり、同時に足も遅くなって水跳ねの音は軽くなる。擦れ違った木に背を向けたまま、寄り掛かるとずるずると座り込んだ。
「―――これで、いい…」
空を見上げていた顔をゆっくりと沈めて。
思い出す。―――自分がされた事を。思い出す。
己の頬にそっと触れていた。雨に濡れて冷たい体で唯一そこだけが、まだ熱を持っている気がして。
―――目蓋が震える。
『…―――なぜ、お前はそんな事を…私に……』
うっかり口にしてしまった私に触れた、私の頬に触れた独眼竜を思い出す。
―――違和感にはとうに気付いてた。
『独、眼竜…独眼竜―――ッ!!』
倒すべき相手。強くなる為の障害。それだけの筈だった。なのに、それなのに倒れた途端、慄然とした。
傷を見て、爆薬に仕込んだ毒針の跡を見つけ、己の所為だと確信して―――。
頭が真っ白になった。
『―――…hey、アンタも懲りねぇな』
最初はこんな感情なかった。
『オレを斬りたいんだろ?だったら気合入れてこいよ』
大胆不敵で横柄でいけ好かない男。今までもそのような輩は腐るほど見てきた。
ごまんといるあの種の奴らは、結局は何も為さぬまま己の命を乞う、自分の欲だけの塊。下で必死に生きている者等道具としか見ず、偉そうにふんぞり返っている武士の風上にも置けない滓のような奴等ばかり。…そう思っていた。
あの男も―――世のごろつき共と等しい存在だと思っていた。
だが刀を交えるうちに“それは違う”と分かって。
『首はやれねぇ。この先は民がいるんでな』
本当に人の為に国を守る、その上に立つ者なのだと。
『筆頭ー!』
腕があり、人望も厚く、帰る場所がある。
守りたいものに手が届く。
そして何より―――民の平和の為だというありふれていながらも真っ当な理由で闘っている。
(私とは違う)
そう、何もかもが違うのだ。
奴のことをひとつまた一つと知る度に、胸の奥が傷んだ。私は。
―――あの男に、羨望どころか嫉妬していたのかもしれない。
私が失ったもの、欲しいものを尽く兼ね揃えた奴を。
『アンタなら喜んで歓迎する』
だから深く考えなかった。ただ向けられた興味を逆手に一泡吹かせてやりたいと、あの時の私は思っていた。
『何…!?』
だからあの爆薬を使った。どうせ無意味な悪足掻き、この男には掠り傷にも及ばないと、そう思ったのだ。
でも目が覚めて“何故あの男が私の下敷きになっていたか”“私は無傷で何故あの男が傷を負ったか”…爆発直後の空白の記憶を考えれば嫌でもその可能性に辿り着く。
―――独眼竜は私を、庇ったのだ。
『着てろ。これから冷える』
情けをかけられるのは屈辱だった。でもこの感情は、痛みは。今回を経て分かってしまった。
認めたくない己の心に、もう言い訳は出来ないくらいに。
『傷の手当、アンタがしてくれたんだろ』
「…私の方がしてやられたというわけか」
期せずして口をついた自嘲に、怒りを感じないのが憎い。
(でも、分かっている)
結局はぬるま湯でしかない。
―――青琉は腰を上げた。
『父上!母上!これっ』
『まぁ、綺麗』
『そんな腕一杯の花、どうしたんだ?』
『青香と取ってきたの!』
『青琉がどうしてもってきかなくて―――…』
一時の平穏を嘲笑うかのごとく、それは忽然と壊れる。訪れるのは生か死。そこに一個人の意思など無意味なのだ。
―――この世は残酷なのだ。
だから私はこの道を選んだ。
『…本当は分かってんじゃねぇのか』
いいんだ、これで。
思う何かを失うくらいならいっそ一人になる。
私の手は、体は―――心はもう。
『た、助けてぇぇえっ!!』
『お願いです!!どうかこの子だけはっ!!』
洗い流せない程多くの血と闇で塗れてしまっているから。
(―――もう戻れない)
『…青琉』
嬉しかった、一瞬でもこの感情を抱けて。幼い頃の、まだ幸せしか知らなかった私を思い出させてくれて。
こんな復讐しかなかった私が、再び生きた誰かを想う事が―――。
「…―――、」
だから。
―――青琉は空を仰いだ。
最後にする。
「―――独眼竜、」
頬を流れ落ちる雫は雨か涙か。分からなかった。
ただ、強く叩き付けてきた雨は顔に幾筋もの細い川を作って流れるのに、青琉は微かに笑った。
―――ありがとう―――
声になったかもわからない微かな口の動きが終わった。
強くなる雨にかき消され、誰の耳にも届く事はない。
それで良かった。
青琉は下を向いた。歯を噛み締めて、手を強く握り締めた。
そうすれば待っていたかのような豪雨が襲いかかる。
―――どのくらいそうしていただろうか。
青琉は立ち上がって、刀を抜くと森深く消えていった。
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