16
“伊達が南西に兵を進めている”
それは伊達を注視する上杉、武田、徳川、そして前田と浅井の耳にも既に入っていて。―――各国は静かに動き出す。
≪ピチャッ…≫
紺色の星空の下、水面が月の光を反射して波紋を広げた。平生後ろで結えられている髪は下ろされていて、青に近い紺が濡れて空に溶け込んでいる。雨でまだ少しぬかるんだ地面に足跡が残り、それが唯一、人の存在を証した。
(伊達の進軍、)
顔を上げ空を見上げた。予想はついていた。向かうは安土城、織田信長の首だろう。
とうとう、
(動き出すか)
「―――!」
刹那目を細めて、振り向き際に短刀を投げた。どっ!と木に突き刺さる音が耳に届いて、僅かに眉を寄せる。
(―――逃したか)
◇―◇―◇―◇
(…っと、危なかったー!)
木々を移動しながら猿飛佐助は夜空に駆け上がった。ざっと森の中に降り、再び枝から枝へ飛び乗り加速していく。
(あれが例の)
独眼竜と何度も相対した織田の将。鉄紺色の長髪に枯茶色の瞳の女。聞いていたとおりだ、間違いないだろう。
そう思う佐助の目は据わっていた。
猿飛佐助。甲斐・武田軍の忍。
彼が此処に来たのは言わずもがな索敵だ。
(一人、か。いや、罠…?)
織田に強者の女在りと聞き、忍の情報網を駆使して来てみれば本当に一人、意外なところにいた。
堂々と言えばいいのか、こそこそしていると言えばいいのか。一人でいる様子はあまりに無防備で、かといって誰かが周りにいるわけでもなく、気配を殺して観察していた訳だったが。
…流石織田の配下といったところか。読めない行動とは裏腹に鋭いらしい。
(まぁ、どっちにせよ)
「厄介だねぇ」
頬を掠った刀傷に触って、佐助は血の付いた己の手を見下ろした。
◇―◇―◇―◇
「政宗様」
背にかかる声。政宗は振り返らずただ前を見ていた。
崖の先、広がる夜空と黒く佇む森を前にして、何かを待つように佇んでいる。
「此度は何故出陣を御決心なされたのですか」
「Ah?」
小十郎はじっと政宗を見つめた。
城を出て一日。伊達の領内を南下した外れの地で今宵は明かすことになった。尾張まではまだまだ遠い。聞けず仕舞いだったその答えを小十郎は必ず聞かんと決めていたのだ。
ただ政宗の返しはない。
故に主の真意をその背中から読み込もうとする。
「本当は魔王ではなく、青琉と名乗る―――あの女子の為ではないのですか」
「なぜそう思う?」
今度は返しが早かった。特段気にならない者はきっと見逃すであろう微細な違和感を小十郎は見逃さない。冷静な声の裏にちらつく何かを見逃さない。
小十郎は言いたい言葉を飲み込むように、目を瞑った。
「―――らしからぬ故、」
それが核心にふれたのか、途端政宗は眉を顰める。
分かっていた。己の主がいつもと違い、天下に向かって突き進む覇気がないことを。
あれほどに戦いを望んでいた織田軍だ。傲岸不遜に「あの魔王とやり合うんだ。体がウズウズして仕方ねぇ」とでも返してきそうなのに、どうも全てがそうではないらしい。
「この小十郎、あなた様の小さき頃からずっとお側に仕えて参りましたが。まるであの頃のように、怯えておられる気がいたしました」
「んだと…」
やっと一瞥してきた政宗は案の定不機嫌で、この場にいたのが小十郎でなければ刀を抜いていただろう。
分かるのは冷静に戦いを楽しみを噛み締めているわけでもなく、何か事態を避けようと、確かめようと焦っているように見えたこと。
「策は抜かりありませぬ。なればこの騒めく心は何故か、」
もう答えは出ていた。
「―――迷っておられるのか?」
風が強く吹いて、木々が騒めいた。雲に隠れていた月が少しずつ顔を出し、二人の顔を照らす。
―――フッと、鼻を鳴らしたのは政宗だった。
「お前には隠しきれねぇな」
小十郎の眉間の皺が僅かに緩む。
「何年仕えていると思っているのです」
そんな小十郎を一瞥する政宗の顔は、明るさを取り戻し、信頼と親しみを込めた眼差しを送っていた。それが合図のように小十郎は横に並ぶ。
すると政宗は再び崖の向こう、広がる森の先を見つめた。
「昔のオレに似てると思ってな」
「と言いますと?」
小十郎もまた政宗の見つめる先を追って問い返せば、少し考える様に沈黙し、政宗は空を見上げた。
「Ah、そうだな―――…」
「―――…」
その頃。遠く離れた地で青琉は空を見上げている。紺色に星が瞬き、月が佇む空。
傍らに置いていた刀を腰に差し、人知れず歩き出した。
◇―◇―◇―◇
迎えた明朝。伊達軍はとある軍の領近くを走っていた。順当に行けば明日、尾張に入る。
「真田幸村ですか?」
ちらっと目を遣った政宗にすかさず小十郎が問った。
「暫く見てねぇと思ってな」
あの覇気。熱さ。そこからくり出される二本の槍。思い出すだけで腕が疼き、またあの瞬間を味わいたいと足が向く。
「このオレがcoolでいられなくなるくれぇ、いい槍を振るってきやがる」
口元に浮かんだ微笑。ああそれほどに真田幸村は主にとって、外せない好敵手なのだと小十郎は改めて思う。
桶狭間で同じく魔王を目にした時以来、武田とは沈黙を置いていた。
だがこうして先に踏み出したのは此方。それを武田がどう見て、今まさにどう動こうとしているのかは知り得ないが、互いにそろそろ痺れを切らしてもおかしくはない。
『伊達政宗、…貴様がか』
『―――その首、私が貰い受ける』
政宗が目を緩めて「but」と付け足す。
「楽しみは他にもあるからよ」
アンタとのpartyは後にとっとくぜ―――…真田幸村。
「―――…待たれよっ!!」
良好だった視界に土煙が舞う。手前からのそれに政宗が、急遽両腕を広げて軍を制した。どたどたと騒がしく皆が足を止める。
飛び出してきた紅い人影。
「あいつは…」と目を見張った小十郎とは正反対に、政宗はただ視界が晴れるのを待っていた。そしてふと笑いを漏らす。
「久しぶりじゃねえか。―――真田幸村」
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