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感覚が研ぎ澄まされている。
さっきまでの体の重さが嘘のようだった。独眼竜が放った攻撃が辺りの雪を吹き飛ばし、急に呼吸が楽になってから、あっという間にもとに戻りつつあると感じていた。
結果的にあの一撃は市の開いた黒い空間を消し、纏わりついていた闇の気配も払いのけたのだ。
今しかない。
「うっ…。―――っ!!」
雪に塗れていた市が気付く。先ほどまでの夢見のような雰囲気はなく、畏怖とも取れる目を向けてきた。その目に迫る青琉が映る。
「来ないで…!」
「ッ!!」
≪ずん≫と圧が増した。背中をどんと叩かれた時のように、肺にあった息が吐き出される。思わず足が止まりかけるも、ぐっと踏み締めて耐えた。しかしその矢先、魔の手は再び迫ってくる。
(―――ッ)
―――見定めろ。
ひゅっと空を割く音がひとつ。
市の表情が揺らぐ。
すれ違う寸前、氷結し霧散したのは魔の手の方。青琉の斬撃がすり抜けたそれを瞬時に凍らせ、消滅させた。
市が瞠目し動きを鈍らす。しかし飛び上がった青琉が、刀を突き下ろす間際の青琉の影が彼女を覆う。
「…―――っ!」
ドスッ!!
―――目を瞑った市。雪が散った。
そしてその雪がはらはらと舞い降りる。
強く吹いた風の中。息遣い荒く、青琉は立っていた。―――市の前に突き立てた己の刀で自分の体を支えながら。
市が震えながら目を開けて、顔の下がったままの青琉をその目に映す。
「―――お前の痛みは分からない」
一言目を発したのは青琉だった。
「だが、想像することはできる」
ぼんやりと浮かぶその姿。白銀と紅の甲冑と兜を纏い、厳しい顔付きのその男は戦で魔王に呼び出された時も後ろの市を庇うようにしていて。
「お前にとって、浅井長政がかけがえのない存在だったと」
あの時のお前の安堵の顔、
『…』
横で見ていただけの私でも、分かる。
「私達が奪ったに等しいと」
途端に市の目には涙が溢れた。くしゃりと顔を歪めて小さく嗚咽を漏らす。
喉を詰まらせるようにひくつき、頬から涙が零れ落ちていった。
「それでも」
顔は上げなかった。上げられなかった。だが言葉にしなければならない。
「私は、生きたい」
―――強く刀を握り締めた。
「すべての決着がつくまで、待っていてくれ」
「…」
少し離れたところに立っていた政宗が目を閉じる。それはほんの一時。
その後再び目を開けると青琉に近付いていく。
「!」
足音に気付き一瞥する彼女に、構わず並んで手を差し伸べた。
「…」
少し見上げて目を揺らす青琉は、躊躇いながらも手を伸ばす。
―――もう。
「手遅れよ」
ドッ!!
どこかで誰かがそう言った。
その瞬間二人の間を割る黒い手。足元から吹き出てきたそれらは二人を引き離すように襲いかかる。
「くっ…!」
「青琉ッ!!」
すんでで飛び退き向こうを凝視した。戻ってこようとする独眼竜がいる。
「―――」
駄目だ。
≪ドンッ≫
足はいつ其処に戻ったのか。飛び込んだ先で両手はその体を突き返していた。
唖然とする政宗の目に青琉が映る。靡く髪が遅く見える。
刹那、青琉の足元には昏く穴が開いて。
【ドクン】
「―――ッッ!!!」
『お前、名は―――』
『今日が何の日か覚えてるか?―――…』
『―――…【青琉】、【青琉】ッ!!』
一呼吸のうちに全身を回った鼓動。止まらない意識の洪水。
どこかの光景。それは目まぐるしく移り変わり駆け巡り不意に、
≪プツリ≫
と途切れ去った。
青琉の体は勢いのまま雪の上に転げる。そして動かなくなる。
「―――おい!青琉、青琉ッ!!」
直ぐ様戻った政宗が青琉にかけより、体を起こして揺さぶった。
それを見ていた市が「わ、私…」と一歩退く。その時だ。
≪ごごご≫と山に轟音が響き渡る。
「なんだ…?」
空を、回りの雪景色を見渡して左馬助が呟いた。次第に大きくなるそれに他の者達もがやがやと出所を探して一気に波のように広がっていく。
(これは―――、)
左に右に、景色を瞬間的に留めて小十郎は駆け出す。「あ、片倉様ァ!」と呼び止める仲間の声も置いて急停止の後、はっと尾根を見上げて刮目した。
「お逃げ下さい政宗様!!」
「―――、」
目を大きくする政宗。一瞬で雪崩が二人を飲み込んで斜面を流れる。
その先の崖から絶えず雪が落下していく。
走ってぎりぎりのところで膝を付き、崖下を覗き込む小十郎。
「政宗様ー!!!」
地鳴りの中でその叫びは掻き消される。雪崩の向こうで市がすうっと消えていった。
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