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人は死を感じた時に取る行動が二つある。
一つは逃げること。そこから離れてしまえば回避の可能性がある。
もう一つは戦うこと。元を断ち切ってしまえば生き残る可能性がある。
だがその両方ともにそもそもの思考判断が合っての結果。―――思考が止まり、身動きができない者にはその選択肢すらない。
あの【闇】の前では何の方策も持ち得ない。
『あなたは正義…?それとも悪…?』
圧倒的な虚無、絶望は―――あの時の比ではなかった。
その目に、心に響いてはいけないと体が硬直する。
呼吸が―――苦しい。
「…おい、どうした?―――!」
小十郎の横で、がくっとふらついて青琉が片膝を付いた。俯いて白い息を深めていく。
そんな青琉の上を影が通り、
「驚いたぜ」
と前に着地したのは政宗だった。
「まさか行方知れずのアンタがこんなところをうろついてるとはな。―――魔王の妹」
「…独、眼竜…?」
呼ばれて反応した彼女、市は視界を遮った政宗を見つめる。
「小十郎」
「…」
「そいつを連れて先に行け。オレはあいつに聞きたいことがある」
「―――問題ないッ!」
下からの遮りに二人の目が走った。吐く息に白く包まれながら、
「私は、戦える…!」
苦悶の表情で顔を上げた青琉は強い眼光を宿して政宗を見る。
そんな青琉を政宗がじっと見据えた矢先。
「なりません」
「!」
誰よりも予想しえないその返答に、ばっと振り向いてその顔を見た。驚きも刹那、政宗の表情が曇る。
「オレの命令が聞けねぇってのか小十郎」
「お言葉ながら、この小十郎。あなた様の御身こそ一番の大事にございます」
政宗の眉が更に深まって震えた。
その姿を落ち着いた瞳に映し、ただ真っ直ぐに。
「その背中をお守りするための右目でございますれば、此奴を連れて先に進むなど言語道断」
小十郎は言葉を並べた。それが留めていた苛立ちに触れたらしい。政宗が歯噛みする。
「…故に」
目はすっと、青琉の背後に向いた。
「オメエら!」
「!」
「任せたぜ?」
有無を言わせない小十郎の顔付きが、しどろもどろしていた男達の背をぴんと張らせる。
「お、おおおおおおお!!」
それはまさに行軍の雄叫びだった。とりあえず思いつく返しをした、それが硬い笑みで冷や汗混じりの部下たちの心境ということを小十郎は知らない。
「な、にを…」
丸まった背で後ろを振り向く青琉に、政宗は細めた目を閉じた。
「お前ら」
≪頼んだぜ≫
―――頭に響いたその言葉。何故すっと血の気が引いたのかは分からない。
青琉は、ばっと顔を戻す。
「行くぜ小十郎」
だがその背は遠ざかっていく。返事をして片倉も追いかけていく。
「駄目だ…」
見慣れたもののはずなのに、言いようのない焦燥感が押し寄せてくる。
ともすれば反応は早かった。
「待て…ッ!―――ごはっ!」
しかし一歩踏み込んだ体にズドンと伸し掛かる何か。上げていた視界はガタンと地面に近付き、うつ伏せで動けないまま振り返る。
「なんか分かんねえけど」
「行っちゃ駄目です隊長!!」
「筆頭に頼まれたんだ…!俺らはアンタをいかせねえ!」
「な、くそ…お前ら…!」
数十人。ただでさえ不調の最中で大の男たちを相手に振り切っていくには己は矮小すぎた。
まさか後ろから、まさか兵に止められるなど予想もしていなかったせいで。
「離、せ…っ!」
懸命に足掻くが向こうも譲らない。必死にしがみ付いて誰一人離しはしなかった。
「―――っ、…くっ……」
詰まった息が体の力と共に抜けて、諦めて市の方に行く二人を眺める。
◇―◇―◇―◇
「―――お前は此処に居ろ」
「はっ」
小十郎を残し、歩を進めた。ギュッ、ギュと雪を踏み固めていた足を止める。
「お話は、…済んだ?」
「おう、待たせたな」
首を傾げた市に、笑みで答える政宗。市は仄かに表情を緩めて、
「…」
ぼんやりと口を開く。
「じゃあもう…」
【いいよね】
―――言葉にならない圧。それが小十郎の目を釘付けにし、動きを刹那で鈍らせた。
何処から湧いたのか、そもそも其処にいたのか。不可視だった存在は、急激な速度で黒く手の形を為して政宗に迫る。
「政宗様!!」
あと一瞬。一寸。―――一刻。
僅かに届かない。
魔の手が政宗の前に大きく迫ったその瞬間、
ドゴンッ!
青い稲妻とともに雪が舞い上がる。そして六爪を持った政宗がその場にいた。
黒い手は既に消え、市が怯えた声で委縮する。
「―――COOLにいこうぜ」
後ろから近づく足音に手で待ったをかけて、小十郎が止まった。
「悪いがアンタをアイツには届かせねぇ」
そしてもう片方の手の刀を市に向けた。
「魔王の妹。―――アンタはなぜ、」
こんなところにいる。
◇―◇―◇―◇
「ふふふ」
始まった。と、歓喜する者がいた。
片眼に当てた手。暗がりの中で雪の様な肌に、じわりと汗が滲む。
それでもよかった。こんな寸時の痛みなど今までに比べればどうでもいい。先の自分のことなどどうでもいいと、あの子以外どうでもいいと。とうの昔に分かっていた。
思考を逸らせば痛覚に囚われるのが嫌で、その気配を押しやる様に唇の端を上げていた。
「…さあ。己の望む明日を手に入れられるのは、いったい誰なのかしら」
楽しませてね。
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