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「―――チッ…!!」
離れる刀。
刀身を正確に突き、巻き起こった霰の風に手が悴む。
驚いたのは今が始まりじゃなかった。
『私は伊達(ここ)が好きだ』
こいつがあんなことを口にしたからだろう。
口からの出任せと言うには不当な、澄んだ目ではっきりとそう言った。
『其処に立ちはだかるのが、お前なら―――私はお前を超えてゆく』
―――静かに、真っ直ぐな目でそう言った。
それは驕りではないとすぐに分かった。
『はぁ…はっ』
『かはッ…!』
『がはッ…、げほッ…う…っぐ…』
何度のしても、
『はっ………、…はっ…!!』
両手で構えた刀。片膝をついて、じっと睨んで動きを止める。
―――こいつは立ち上がってきた。
それが意味あるものだと信じて。
“諦めなかった”んだろう。
『お前まさか―――!』
それがこいつの姉と同じ霧の類だと分かった時には遅かったらしい。
視界の隅に倒れて行く青琉。靡く髪の隙間から見えた顔は、苦しさの狭間で目を閉じかけるも安心したように気を失っていく。
『私は、大事なことを忘れていた』
ああ、そうか。
『なあ…俺たちはいつからか忘れてしまった…。いや…見ないようにしていたのかもしれない…。大切な何かを』
―――古い記憶。
奥州がまだ、先代が亡くなってからまだ間もない頃だった。伊達の不穏を嗅ぎ付け襲撃してきた松永を退け、家臣の誰もが見るべき方向を向いたあの瞬間。
『私にとって、独眼竜が思い出させてくれた大切な事柄』
お前も、
(…与えられたのだったな)
―――あの方に居場所を―――
凍えた手が温かさを取り戻していく。空いた腕は青琉を受け止めようと伸ばしていた。
濃い霧が晴れていき、雲間に覗いた青空から陽光が差し込む。
しかしふと、見上げていた先で弧が煌めいた。霧の中に見えたそれは空を斬るように、ただ一直線に―――青琉に向かって急降下する。
「…―――!!」
瞠目する小十郎の目に大きく映った。
◇―◇―◇―◇
≪バチッ≫
―――勢いよく目を開けた。雷が走ったような目覚めに、がばっと上体を起こすと急に寝所内が白く霧がかる。
「…」
これが異変だということはすぐ分かった。
横に置いてあった刀を掴んで、かろうじて見える障子をじっと眺め。
「―――出てきな」
立ち上がりがてら刀を鞘から抜いて向ける。
「土足で夜這いたァ、青琉の方が余程お行儀がいいぜ?」
しんとして物音ひとつしなかった障子の向こう。少しして、横から≪ざっざっ≫と草履の音が始まる。そして人影を襖に落として、ゆっくりとやってくると、戸が開き、霞にその姿が浮かんで見えた。
しゃらんと揺れる髪飾り。夜を思わせる色の髪。仄かに弧を描く口元。
戸枠に指をかけ、首を傾けると。
「相変わらず元気そうで嬉しいわ」
彼女は口角を上げて微笑んだ。
「―――独眼竜」
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