102
「―――青琉!」こだまのようにそれは鳴り続ける。
靄のかかった視界と意識。そこは彼処か、それとも何処か。
―――微睡みの中、薄ら目蓋を開く。仄かな光を拾って薄明るい紅が降りてくる。
灯籠の明かり。
誘われるように、重たい首をゆっくりと横に向けると溜まっていた涙が滑り落ちた。
「……」
独眼竜。不確かな輪郭がだんだんと明瞭になる。ああ、独眼竜だ。
囲うように見えるのは牡丹、ねね。同じく脇には片倉に亀助、重蔵。他にも部下がいる。
「此処、は―――」
「青琉様は急にお倒れになられたのです」
覚醒しない目は自分を沈痛な面持ちで見つめるねねへと移った。
彼女は胸に添えていた手を安堵の息と共に下ろす。
「良かった。本当に、よかった」
「お姉ちゃん」
「隊長おぉ…大丈夫ですか…?」
「大丈夫な筈があるまい亀助。…どうか安静に」
ねねを初めに口を開き出す界隈。皆、灯火で照らされる顔は不安気に私を見ていた。
ねねの背に乗っかって顔を出した牡丹に次いで、心配そうに眉尻を下げている亀助。落ち着いた重蔵の一言の後、静まっていた部屋の雰囲気は少しずつほぐれていく。
だが何があったのか、まだはっきりとしない頭では事の大きさは掴めない。
(私は…何を…)
身体の下の褥。掛かった着物。ああそうだ。
―――必死だったねねの顔。私を助けようと名を呼び続けていて。そして私は。
(倒れた、のか)
「―――お前ら、」
その声は反射的に青琉の瞳を奪った。
「暫く青琉と二人にしてくれ」
真剣な顔が目に入る。
頭が重い。瞼が重い。でもその言葉はやけにはっきりと聞こえて、妙に安心したんだ。
真っすぐに青琉を見つめて言った政宗に注目が集まる。しかし一瞬で騒めきを止めるその声は辺りに緊張をもたらした。
ぽかんと目を丸くする亀助を押し退け、今まで成り行きを見ていた小十郎が身を乗り出す。
「なりません政宗様。御身に起きたことをお忘れか、あなた様も」
「小十郎」
鬼気迫るような顔を振り向いた鋭い眼差しで制する。小十郎は口を噤み、眉間を震わせ政宗を見つめた。しかし政宗はその強い眼差しを止めない。
牡丹は少し怯えたようにねねの背中に隠れて見つめ、亀助は睨み合うように沈黙する二人をそわそわしながら交互に見ていた。
「コイツと大事な話がある」
政宗は少しの笑みも浮かべず、じっと小十郎を見る。
だんだんと目が覚めてきて理解できた。
しかし体を起こそうと力を入れるも思った以上に動かず、上体を捩じって伏せるように向く。それだけで息が上がり、気付いたねねに呼ばれ駆け寄られた。
政宗の目が青琉に戻る。
「…」
小十郎は変わらず強い眼差しで政宗の背を見ていたが。
「……、」
ぎゅっと目を閉じる。
「四半刻」
それまでにお済まし下さい。そう言って政宗から離れていった。
「おう」
政宗は外へと向かう小十郎に、ふっと笑って見せる。それはもういつもの雰囲気と変わりない。
「お前らもだ。いったん部屋を出ろ」
そう呼びかける小十郎の後をついてぞろぞろと人が出払っていく。
戸惑うねねに青琉が顔を向けて苦笑で頷いた。『行け』という合図だと彼女が察する反面、後ろ髪をひかれる様子で牡丹の手を引いて出ていく。
「…」
「…」
そして。―――二人きりになった。
カタカタと引き戸を叩く外の風。一気に迫る夜の気配。
人は、いない。
照らす灯籠は独眼竜を漸く映し出している。しかし肝心の表情は見えなかった。影が目を隠して、無表情な口元しか分からなかったのだ。
「独…眼竜」
両腕で半身起こして顔を上げた。
驚く間もない。近づいたと感じる間もない。
「―――…!」
体にかかる圧。頬に走る髪。背に、頭に固定された腕。
―――抱き締められていた。
「何も言うな」
引き寄せる腕が強くなる。
だが、なぜだろうか。今まではどこかだめだと跳ね返してきたのに。
「…」
心は凪のように落ち着いていて。
「…どうした?」
振り向くことができない奴の肩の上で、そっと目を遣った。
「―――ッ!」
しかし視界が反転し、どんっと背中に痛みが走る。ああこれは。この光景は。
『…魔王を、殺しに行くのか』
“あの時”と、一緒だ。
「……」
奴の手が耳に髪をかける。耳元に口を近付けてくる。
「喋るな」
そのまま唇は首、鎖骨となぞる様に滑り落ちてきて。
「っ…!やめろ、独眼竜…!」
「…」
「独眼竜ッ!!」
ぴた、と止まった。奴は顔を上げ、私を見つめる。
違う。
「―――…違う…っ、だろう…」
なぜ。なぜ。
いつもの奴とは何かが違い、切羽詰まっているように見えて。
理由を求める言葉が頭を埋め尽くした。
「大事な話があるんだろう…?独眼竜」
胸が張り裂けそうだった。
どんな顔をしていたのだろう。互いにただただ苦しい胸の内を訴えるように言葉にしたのだけは、確かだと、思った。
「―――そう…だったな」
そう言って手を放し、奴は先に起き上がる。足元で胡坐を掻いて顔を背けていた。
体を起こして見えたその姿は、今までには見たことがない奴を―――見た気がして。
「…心配をかけた」
そう呟くように告げる。いつしか体は軽くなっていて、立ち上がるとその横に座った。一瞬目を瞬くように一瞥されたが、ふっと笑うあの知った笑みに戻る。
「…夢を見てな」
『 』
「どういうのだったかはよく覚えていねぇ。だが、」
『―――来たいなら、来ればいい』
「お前を見た、そんな気がすんだよ」
「…っ、」
それは。
『お前、名は―――』
―――何だ―――
「浅井の時だ」
≪―――ドンッ…≫
強い衝撃だった。誰かの声が聞こえた気がするが、その言葉は何か分からない。
横から突き飛ばすように、元いた位置を入れ替わるように、地を蹴って跳ねた人影がその両手を此方に向かって伸ばす。そして為されるがまま、体は押し出されていた。
「―――浅井が撃たれた時、お前を失うんじゃねぇかと思った」
政宗は顔を上げる。
「まあそれは杞憂だったがな」と立ち上がった。
「お前は此処にいるんだってことを確かめたかった。さっきのは悪く思うな」
そう言って背を向け離れていく。途端に体を向け、
「独眼竜!」
追うように数歩踏み出していた。
奴も足を止める。
何故、
「…ッ、」
引き留めたのか。こんなにも苦しいのか、説明するには言葉が足りない。
それでも、
「―――私は、」
言わずにはいられないのだ。
「私は此処にいる。生きている。だから…」
歯を噛み締めて、言葉を探しているうちにまた涙が溢れて伝う。
「だから―――いつも通りのお前でいろ」
―――それは想いのままに表れた表情。嬉しさ、胸が張り裂けそうな苦しさ。それらが綯交ぜになった顔。
でも、とても楽に頬が緩んだのだ。
「…」
政宗が目を細めて、視線だけを青琉にやる。
そして、
「―――…!」
―――それはとても紙一重に近く、目が認識する暇もなく。
交差する、互いの顔。
重なる長く、短い一瞬。
唇が口を塞いだ。
触れたそれは離れ、呆然とする青琉の濡れた目尻に指を走らせた政宗が、見つめてふっと笑う。
「…そろそろ頃合だ。いい夢見ろよ、青琉」
返した踵。空いた戸は、すっと閉じて足音は去っていった。
「……」
静謐が戻ってくる。風だけがその場で息をするように、僅かに戸を鳴らす。
「…―――私も、だ」
一人呟いて目線を落とす。流れる涙が月夜に光った。
「お前を見たよ」
『―――何だよ…アンタッ…!』
独眼竜。
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