鍵がない。仕事から帰って家の、玄関の前でそのことに気づいて頭を押さえた。
そういえば今朝、歩いているときかばんを落として、中身が半分ほど出たことを思い出す。
「あのときか、」
きっとあのとき拾い忘れたんだろうと、自分のなかで無理矢理結論付けたあと、もう一度頭を押さえた。
こういうこともあろうかと、以前合鍵を作ったがそれはこの戸の奥。家の中なのである。
何のための合鍵だよ、と本日三度目の頭を押さえようとしたとき、もうひとつ鍵を持っているひとりの男が頭に浮かんだ。
「もしもし?」
電話にはあっさり出てくれた。久しぶりに聞いたその声は相変わらず気だるい。
「私だけど。あんたさー私の部屋の鍵まだ持ってる?」
元彼に自分の鍵を返してもらう、それが私の考えだった。大家さんの家までは遠いし、鍵屋に頼めば高くつく。別れた相手なら遠くはないし、お金もかからない。
「名前?」
それ以外に誰がいるんだよ、そう思いながらそう、とだけ答えてふと考えた。別れて3ヶ月経つんだから他に女ができたのかもしれない。それなら今の"私だけど"の一言じゃ分からないか。
まぁ私にはもう関係のない話だけど。
「元気か?」
銀時はまるで付き合っているときのように、普段の会話のように話し始めようとした。
「鍵。持ってるか持ってないか」
それを私は綺麗に本題へ戻す。元彼と世間話をしているほど私は暇じゃないし、吹っ切れていないわけでもない。
「持ってるよ。毎日首からぶら下げてる」
「冗談キツいわ、じゃあ取りに行っていい?」
ふわぁあーと欠伸をする声が受話器から聞こえる。いちご牛乳の甘ったるい匂いがしてきそうな大きな欠伸だ。
「いいけどぉー?ついでにジャンプ買ってきてくんない」
今週ギンタマン表紙なんだわ、とか言ってたけど途中で切った。相変わらずな男だと思いながら私は3ヶ月ぶりに万事屋へ歩き始めた。
「久しぶり、」
古い扉ががらがらと開き、目の前に背の高い銀時が登場した。3ヶ月前と何も変わっていない、髪の量が少し増えたくらいだ。
「鍵、どこ?」
チャラ、と紐に繋がれた鍵は銀時の首にかかっていた。え、嘘。マジだったの?
「おいおい、引くなよ。俺ァただの鍵っ子だよ」
「引くわ、どこに元カノの鍵ぶらさげてる鍵っ子がいるのよ」
器用に人差し指に引っ掛けた紐をくるくる振り回す銀時。私が手のひらを差し出すと、銀時は私を見て目を細めた。
「今何やってんの?」
相変わらず鍵がついた紐は回り続けている。
「何も。前と変わんない」
「嘘つけ。お前バイト辞めたろ?」
さっさと返してよ、と言い出しそうな言葉は出ないまま喉の奥へ消えていった。
「職場も携帯も変えてやがる、まぁ家だけは変わってなかったみてぇだけど?」
銀時の片方の眉が上がり、前髪に隠れる。くるくると回していた鍵は彼が握っていた、紐が指の間からちらりと見えた。
「だから何よ、変えちゃいけないわけ?」
そろそろ本当に返してほしかった。このままじゃ帰れないとわざとキツめに問いかける。
「別に?名前が会いに来てくれたから嬉しいなーと思って」
「じゃあさっさと返して‥」
鍵を持つ銀時の右腕を力強く握った。その拍子に銀時が自分の腕を引き、力強く握っていた私は引っ張られるように抱き寄せられた。
「ちょ‥離してよ!」
すかさず両手で私を逃がさんと抱き締める銀時。こういうときは恐ろしいほど早くて強い。私がどれだけ抵抗しても無意味なのだ。
「いまさら、戻ってこいとは言わねーよ」
私の右耳に銀時の息がかかる。体がこわばった。
「じゃあ何でこんなことしてんの」
別れた女の合鍵を持って、しかも無理矢理抱き締めて。ただの変態野郎だ、知ってたけど。
「戻ってこいとは言わねーけど‥俺の鍵がハマったのお前の鍵穴だけな‥ぐはっ」
「何言ってんのよ気持ち悪い!離せ変態!歩く公然わいせつ罪!」
思いっきりお腹を殴った、いやマジで気持ち悪い。元カノに何言ってんの?
「お前もそういうの考えてたろ?素っ気ないフリしてっけど、本当は‥ぐはっ!」
「それ以上言ったらぶっ殺す!」
銀時が殴られたお腹を押さえた隙に離れて、鍵を奪い取る。
「名前‥俺、」
「ぶっ殺されたいの?いい加減にして!」
聞きたくない、あんたの気持ちなんて。いまさら何を言ったって後の祭り。
私は開いた戸も閉めずに万事屋を飛び出した、家に着くまで一度も振り返らなかった。
全身に浴びたぬくもりが蘇ってきそうで、怖かった。
サヨナラは終わっていなかった
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