土方さんもこんな表情をするんだなと思う心の中で、私は落ち着いていられなくて。鼓動が速まる。
「お前、入社したときからずっと俺のこといつも怯えた目で見るのな」
あぁ、そうだ。私はいつだって土方さんが怖い。怒られたくない、どうか平穏に。そう思いながら毎日仕事をしている。今までもこれからも土方さんへのこの気持ちは変わらないんだろう、そう思っていた…のに。
今目の前に立つ土方さんはとても脆くて弱くて、私に儚げに映った。その悲しげな微笑みに胸騒ぎがする、ねぇ土方さん。私はやっぱり土方さんがわからないです。三年経った今も知らない土方さんがいて、そんな土方さんを初めて見て私はどうすればいいか分からないんです。
きっと今までみたいに怖くて厳しい土方さんのままだったら、私の心はこんなにも迷うことなかったはずだ。ずっと怖い上司として怯えていたはずだ。
「…まぁ、仕方ねェよな。お前にはいつも怒鳴ってばっかだもんな」
ねぇ、土方さん。どうしてそんな弱々しく笑うんですか。自分に呆れたみたいに言うんですか。私が今まで見ていた土方さんじゃない土方さんに心臓は焦る一方で、何か…何か言わなくちゃいけないのに…何を言えば良いか分からない。
言いたいことはあるはずなのに、土方さんの表情に胸が締め付けられる。私、私……
ガチャ、
そのとき、静かなオフィスに扉が開く音がして。私と土方さんは同時に扉の方を見た。するとそこには、
「…坂田さん?」
相変わらず気だるい表情の坂田さんがオフィスに入ってきた。ネクタイを緩めて、スーツに合うとは言えないイチゴ牛乳を飲みながら。
「えっ!ちょ、みんな…?」
さらに坂田さんの後ろにはずいぶん前に帰ったはずの沖田くん、猿飛先輩、そしてさっき出て行ったっきり帰ってこなかった退がいるではないか。誰も喋っていないのに一気に賑やかというか空気が軽くなるオフィス。さっきまでの緊張や動揺が少し霞む。
「あり?まだお取込み中ですかィ?」
沖田くんが私と土方さんを見てさほど驚いてもいない表情でそう言った。
「ったくこれだから堅物くんはダメだよね。サチコちゃんご飯誘うだけでどんだけ時間かかってるわけ?イチゴ牛乳飲み終わるんだけど」
坂田さんが呆れたように笑ってイチゴ牛乳を飲むその後ろで沖田くんはニヤニヤしている。
「え、ちょ…皆さんどうしたんですか?」
沖田くんと退もいるけど、坂田さんと猿飛先輩は先輩なので敬語で尋ねる。坂田さんがどうして土方さんが私を食事に誘ったことを知ってるのかも分からない。もしかしてオフィスの外で聞いてた?
「どうしたんですかじゃないわよ、あなたたちを待ってたの。早くしないと私と銀さんだけで行くわよ」
退社したときよりも化粧が濃くなっている猿飛先輩が腕組みをしながら私にそう言い放つ。
「猿飛先輩、それはダメでさァ。この二人だけで飯食わせてみなせェ。何も喋らねェですぜぃ」
沖田くんがまたもニヤニヤしながら冷やかす。おい沖田!リアルなこと言うな!言い返せないから!!
「今日みんなでご飯行こうって坂田さんが誘ってくれたんだ。俺たちが残業してる間に沖田くんとか猿飛先輩も誘ってくれてお店の予約もしてくれたんだって」
ここでようやく退が話題に入ってきた。え、みんなでご飯?このメンバーで?どんだけ珍しい集まり?ということは土方さんが誘ったのは二人じゃなくこのメンバーでってことだったの?
「(…それならそうと早く言えやァア!!)」
何!?私だけえっ、二人きり!?どうしよう!とか一人で妄想してたってわけ!?土方さんが二人きりで誘うわけないじゃんって思ってたけど…本当に二人きりじゃなかったじゃん!!アホか!私アホか!!みるみるうちに顔が赤くなっていく。
「サチコちゃん元気なさそうだったから事務課に飯誘ってみたらこいつら行くって来てさ。ったくよー金曜の夜に全員暇なこって」
坂田さんが呆れながらも笑ってそう言った。さっきから状況について行けない私にその笑顔は何だか新鮮で。坂田さんからふざけ半分で食事に誘われることは何回かあったけど、今回は私を心配してくれて、しかもみんなも誘ってくれて。すごく優しい人じゃないか。ヘラヘラしてるけど。
「せっかくだからサチコちゃんは土方くんに誘ってもらおうと思ってさ、今日いろいろあったでしょ?おたくら」
「「……っぐ」」
坂田さんが意味ありげに片眉をくいっと上げるもんだから、私と土方さんの間に気まずい空気が流れる。
「土方くん、先輩を食事に誘うっていう坂田さんに俺も行くって言ったんですぜ?結構反省してると思いやせんかィ?」
「おい沖田、余計なこと言ってんじゃねぇ!つーか土方くんって何だ!おめぇいくつ下だと思ってんだ!」
隣で土方くん…じゃねぇや、土方さんがキレている。うん、いつもと同じ土方さんだ。そうだよ、これが土方さんだ。さっきの優しい土方さんや悲しげに微笑んだ土方さんがたちまち遠ざかっていく。
「あーほらほら、そうやってすぐキレないのー。サチコちゃん怖がっちゃうから」
そう言って坂田さんが近づいてくる。そして私の持っていた紅茶をスッと取り上げると、自分の持っているイチゴ牛乳を差し出してきた。
「そんな西洋貴族ぶった飲みモンより、こっちの方が美味いよ」
「おいてめぇ、何してんだ!着色まみれの砂糖水のどこが美味ェんだよ」
すかさず土方さんが坂田さんから紅茶を取り上げる。あぁまた始まった…今日何回見れば良いんだこの絵面。
「そんな泥水みたいな色の飲みモン片手によく言うわー」
「男のくせにそんな甘ったるいモン飲んでるから今月の成績下がったんじゃねぇのか、アァン?営業のトップさんよォ」
「あるぇ〜?今日ありえないミスしたのはどこの瞳孔オープン係長でしたかねぇ〜?あのミスありえないですよね〜今時珍しいですよ、逆に。むしろミス以下?カス?クズ?みたいな」
「…てめぇ…!」
土方さんが歯を食いしばって坂田さんを睨む。坂田さんは余裕綽々なふざけた表情で鼻をほじっている。
「あーあー、ほら鈴木先輩がさっさと行くって言わねェから面倒なのが始まったじゃねェですかィ」
「…え!私のせい?」
二人の言い争いから逃れようと移動した先には沖田くん。上司のくだらない言い争いを冷静に眺めるその横顔は妙に貫禄が現れていた。
「係長、心配してたんですぜ」
「心配?」
「心配っていうか反省?今日のことで鈴木先輩にカッコ悪いとこ見せたって。でもその反省を行動に素直に出せねェ係長に坂田先輩がガツンと言ったみたいですぜ」
「…ガツン、とは?」
「さぁ?でもあの2人は常にお互いバチバチ火花散らしまくってるのに、今日は妙に協力的でしょ?」
「………そう?いつもと変わらない喧しい言い争いしてるけど」
「食事、最初は土方抜きでやろうって言ってたんですよ俺ァ」
「結構ひどいね」
「でも坂田さんが「土方はコミュ障なだけで本当はみんなと仲良くしたいんだよ、マジで人付き合い下手だけどな。だから誘ってやろうや、勘定はあいつ持ちでさ」って言って土方さんも誘ったんでさァ」
「途中までいい話だったのに、坂田さんもひどいね」
「まぁ要するに…」
そう言いながら沖田くんが首を鳴らす。そして、
「鈴木先輩が愛されてるってことでさァ」
沖田くんが私を見上げてそう言った。瞬間、その一言が私の胸に突き刺さった。
「おい沖田、てめぇ余計なこと言ってんじゃねぇだろうな」
そのとき喧嘩を終えたのか、土方さんがこちらを見て眉をひそめた。
「何も。土方さんがその紅茶かココア買うか10分迷ったことは今ここで初めて言いやすけど」
「…なっ!沖田てめぇ!それが余計なことだっつってんだよ!馬鹿野郎!」
慌てて大きな声を出す土方さんの表情はこちらが恥ずかしくなるほど赤くて。
「はァ?紅茶とココアで10分?サチコちゃんはイチゴ牛乳の方が好きだっつーの」
坂田さんはまた呆れたように土方さんにため息をつく。すいません坂田さん、私の好み勝手に決めないでください。
「あなたたち、いつまで騒いでるの?早く行かなきゃ、予約は6時半にしたんだから」
それまで黙って見ていた猿飛先輩が呆れたように時計を見て言った。
「ほらほら、サチコちゃんカバン持って行くよ?土方くんは先に降りてタクシー捕まえてきて」
坂田さんが私のデスクに置いてあるカバンを持った。
「何で俺が行かなきゃなんねェんだよ!てめぇが行け!」
「あーうるさいうるさい。あんまり騒いでると仲間に入れてあげないヨ?」
また始まった(というか終わっていなかった)言い争いに私たちはもう苦笑いするしかない。
「係長と坂田さんが同じタクシーに乗るってことで良いんじゃねェですかィ?俺たちはさっさと降りて行きやしょう」
沖田くんがさらっとそう言いながらオフィスを出て行こうとした。坂田さんと土方さんは沖田くんに気づかずジュース片手に言い争いしている。沖田くん…ちゃっかりしてるよ本当に。まぁ坂田さんの手から自分のカバンを取って沖田くんと向かおうとしている私も人のこと言えないけど。