定時が過ぎてまだ30分しか経っていないというのに、オフィスはがらんとして人気がまるでない。実際いまオフィスにいるのは私と向かいの退だけだ。金曜日がもたらすこの過疎化、パソコンを打つ音だけが響く。あぁ、私も早く帰りたい。無駄に静かな室内は落ち着かなくて、貧乏揺すりをしたい衝動を抑えながらあと数ページに迫った書類作成に神経を集中させる。


「うっ、が…終わった…!」


土方さんが定時までにと提出時間を伸ばしてくれた書類作成はそのあとすぐ終わった。見直しを退にしてもらって印刷。機械音とともにコピー機が動き勢いよく印刷物が出てくる間、その場で首やら腕を回す。達成感というより脱力感を感じながら椅子の背もたれに上半身を預けて、


「うぅあぁあー…っ」


女子とは思えない呻き声のような声を出しながら体を伸ばした。それもこれも一緒にいるのが退だからできることである。


「俺も終わった、お疲れサチコ」


それから印刷し終わった書類をまとめていると退も今日の業務を終えたらしく、少し疲れた笑みでこちらを見た。


「ありがとう、手伝ってくれて」


「いいよ、ディズニーランド行ってくれるんだろう?」


退はお疲れ様、と言ってさっきもくれたクッキーを私に差し出す。いや、ディズニーランド行くって返事してないんですけど。


「俺、ちょっとトイレ行ってくる。悪いけど書類印刷してるからまとめといて」


退は携帯をチェックしながらそそくさとオフィスを出てトイレへ向かった。私はクッキーを一口で口に入れてモグモグしながら印刷機のもとへ向かい、退の書類をまとめ始めた。こんな行儀悪いことができるのはオフィスに私しかいないからである。


ガチャ、


口一杯に分厚いバタークッキーを味わっているとオフィスのドアが開く音がした。


「ねぇ退、土方さんいつ帰ってくると思う?書類デスクに置いとけば分かるかな?ていうかディズニーのクッキーって何でこんなに美味し…え」


まとめた書類を片手にくるりと体の向きを変えて退のいるであろう方を見ると、


「か、かかりちょう…」


なんとそこには退ではなく土方さんが立っていた。悪いことをしているわけでもないのに、思わずだらんとしていた姿勢から全身の骨が垂直になるくらい体がピシッと伸びる。オフィスには私と土方さんだけ、作業をしているわけでもないのでパソコンや印刷機の音もなし、茜色の夕日が窓から差し込んで土方さんのLOWSONシャツを染めていた。


「(って、状況を説明してる場合じゃないぃい!)」


当たり前に退だと思っていた私はきっと豆鉄砲を喰らったような顔をしているだろう。まだ口の中にはクッキーが残っていて、追い討ちをかけるようにドクドクとやって来た緊張に口の中の水分はもう数パーセントしかない気がする。


「(…だから、そんなことはどうでもいいんだってば!)」


お互い何も話さずに突っ立っているこの状況をどうにかしたいんだよ!私は窒息覚悟でクッキーを飲み込むと咳払いをして土方さんを見た。土方さんは銅像のように動かずにただ私を見ていた。目が合った途端にドクドクと規則正しく鳴っていたはずの鼓動がドキッと大きく鳴った。思わず正しかった姿勢も崩れて背中が丸くなる。え、やだ何でこっち見てるの?この際だから言うけど土方さんの眼力めっちゃ怖いんだからね、何?私に穴でも開けるつもりデスカ?


「あっ、あの…これ、書類です」


さすがにこの状況でお互い固まってるのはアレなので土方さんだと気づかず話しかけたことはスルーして、とりあえずこの気まずい空気を破るためにも私は数歩歩き、土方さんに近づくと持っていた書類を差し出した。


「お‥おう、」


土方さんは様子がおかしかった。いつもの堂々とした威圧感や怖さが感じられないのだ。さっきの眼力も私が近づくとそらされてしまってすぐ目の前にいるこの距離で不自然に足元に目線を落としている。


「じゃあ、あの‥私はこれで、失礼します」


「あぁ」


3年も一緒に仕事してるのにこの異様な気まずさは私と土方さんの関係性を見事に表していると思った。所詮私が残業を手伝うと大声で宣言しても土方さんが私のいないところで微笑んでいても、私たちは上司と部下。ただそれだけだ。そう分かっていたはずの事実が少し寂しくて、そう思う自分もおかしくて。もう止めようと頭の中に溢れでてきたものを消すように瞬きをした。


「鈴木」


だから、土方さんの横を通りすぎてそのまま帰ろうと思っていたから、ふと名前を呼ばれて、私は立ち止まることしか反応ができなくて。


今までで一番近くで聞こえたその声は、いつも呼ばれるときとは違ってすごく緊張しているように聞こえた。そっと目の前の土方さんを見上げると、一本一本土方さんのまつげが見えてしまうこの距離で、土方さんは私を見ていた。相変わらず静かなオフィスで私の心臓の音が異様に存在感を放つ。


「あの…あれだ、これ…やる」


さっきよりおかしな状況になっている気がする、いや私が変に意識してるだけでいつも通りかもしれない、じゃあ何でこんな緊張してるの自分んん!と叫べぬ思いを心の中でぶちまけていると土方さんが何かを差し出した。


「‥紅茶?」


土方さんが持っていたのは午前の紅茶(ミルクティー)だった。いきなりミルクティー?ちょっと待ってよ、どういうこと?


「紅茶きらいか」


固まっている私に土方さんの声が降ってくる。いや、そういうことじゃなくて!と慌てて言うと、じゃあ早く受けとれと言わんばかりにぐいっと差し出されるそれ。


「あ、りがとうございます…」


どうした!土方さんどうした!紅茶なんて私に渡すなんて何があったァ!とこれまた言えぬ気持ちを心の中でぶちまける。紅茶の重みが加わった私の手は熱い。


「‥おまえ、やっぱりきらいだろ紅茶」


「えっ、そんなことないですよ!」


土方さんがため息混じりに言うもんだから私はまた慌てて首を振る。何でそんなネガティブなんだよ、ちょっとめんどくさいな!


「‥ならもっと喜べ」


「だって、土方さんが急に渡すんでびっくりして」


「そ、それは‥」


そこで土方さんが黙った。そ、それは‥の続きは何なんだ。明らかに不意打ちだったらしい私の言葉に土方さんは目をキョロキョロさせている。


「紅茶は好きですよ、だから嬉しいです」


ありがとうございます、と頭をさげると土方さんは一瞬キョトンと頼りない表情を見せたあと薄く、本当に薄ーく、口角をあげた。


その一瞬の表情は私の心を穏やかにして、思わず私まで微笑んでしまった。エブリデー激おこぷんぷん丸の土方さんと笑い合うなんて、最初で最後かもしれない。そう思ったら心の隅が少しざわついて、私は土方さんを見上げた。彼はまだ口角をあげたままで、


「(土方さんって、笑ってる方がずっといい)」


ふわふわとした不思議な気分の中でそう思った。

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