カチャ、
急須にお茶の葉を入れて、ヤカンを火にかける。ふぅと小さなため息を吐きながら壁にもたれた。首をぐるぐる回したりヒールから足を抜いたり、できる限り疲労を放出しようとするけど限界がある。あぁ、マッサージ行きたいなぁ。
家から少し離れてるけど岩盤浴とか行っちゃおうかなぁ、今日一日忙しかったせいもあるけどここ最近の疲れが結構たまってきてるし、土日のどっちかに癒されに行きたい。そんなことを考えていると急に給湯室の扉が開いた。だらんと壁にもたれていた体をサッと起こす。誰だろう、って‥
「‥‥‥」
給湯室の扉を開けたのは土方さん。驚く私に気づき目が合うけど土方さんはさほど驚いていないように見えた。ヤバイ‥なんでこんなとこで会うの!土方さんが給湯室に何の用だ!いや、別に給湯室が私のものとか言ってるわけではないけど、状況が‥気まずい。さっきのことがあって余計気まずい。
「‥‥‥」
「(重い!何この空気の重さ!苦しい!)」
何を話せばいいか分からなくてチラチラと土方さんを見るしかできない私に足音が近づいてきて、
カタ、
土方さんは私と沖田くんのカップの隣に自分の持っていたカップを静かに置いた。え、と思いながらさっきより近い土方さんを見上げるとまた目が合って。
「‥い、淹れましょうか?」
置いたってことは淹れろってことなんだろうけど、無言でするのも変かなとそう聞けば土方さんはいや、と言った。てっきり頼まれると思っていた私が土方さんを見上げると彼は少し口をへの字にしていた。
「‥悪い、やっぱり頼む」
「え、あ‥はい」
いつものクールビューティーな土方さんがバツが悪そうに申し訳なさそうにそう言った。発言からして自分で淹れるつもりで来たんだろうけど‥まぁいいや。ちょうどボコボコと沸騰し始めたヤカンを手にとった。土方さんは静かに私の隣に立ったままで。
「‥‥‥」
「‥‥‥」
え、土方さん何で動かないんですか?よく考えれば超近いんですけど、威圧感が果てしなくあるんですけど!お茶の淹れ方にまで細かいんですか!?
「鈴木、」
「はい?」
三人分のお湯コップに注ぎ、それからまた急須にお湯を戻した。手元の腕時計を見て時間を確認してお茶ができるまで数分待つ、そんなとき相変わらず超至近距離の土方さんが私の名前を呼んだ。
「‥書類の件、悪かった」
「‥え」
ボソッと呟くように聞こえた言葉に耳を疑った。悪かったって言った?と確認するように土方さんを見上げると彼は珍しく慌てているようで、目をキョロキョロさせていた。
「‥‥‥」
「‥‥‥」
お互い何も言わない沈黙の時間が流れた。土方さんが私に悪いと思って謝罪した、という現実が信じられなくて何をどう返せばいいのか私は小さな脳みそで必死に考えた。静かな給湯室にお茶の良い香りが立ち込めても、私は動けずにいた。
「茶、デスクまで頼むな。あと今日は定時で上がれ」
「え、でも‥」
この空気に耐えられなくなったのは土方さんが先だった。腕時計を確認してからそう言うとカツ、と彼の靴の音がやけに大きく鳴った。書類、まだ完成してないのに。私に気を遣っているのか。彼らしくないと言えば失礼だけど、でもこんなこと初めてなのでそう思わざるを得ない。
「山崎にも定時で上がるよう言っておいた」
私が返事をする前に土方さんは私に背を向けて給湯室を出ようとしていた。いつも、というか今まで大きくて遠く感じていたその背中がどうも小さく見えたのは気のせいだろうか。
バタン、
扉が閉まり、静寂が戻ってきても私は動けないまま土方さんの小さく見えた背中を思い浮かべていた。なぜか息が詰まるように苦しい。
私は別に土方さんに謝ってほしかったわけじゃない、定時で上がりたかったわけじゃない。かといって残業したいわけでもないんだけど。
土方さんのミスは仕方のないことだし、私の犯してきた歴代の失敗たちに比べれば今回のことはミスに入るのかというくらいのものだと思う。でもまさか土方さんが、と彼をできる人間だと信じ込んでいたからあの状況で(坂田さんと沖田くんが土方さんに言い寄ったとき)私は何も出来なかった。
どうすれば土方さんのプライドを傷つけずフォローできるか、正解を知らなかった。土方さんが傷つくことより、自分の臆病さを優先してしまった。
いくら土方さんのミスだとしても、あのとき気にせず「見つかって良かったですね!」とか「そこの二人(坂田と沖田)も言い過ぎですよー」とか言えることはたくさんあったのに。
「っ!」
気づけば走って給湯室を飛び出していた。長い廊下、その先に土方さんが歩いているのを発見して私は大きく息を吸い込む。
「係長!」
いつもの私なら、というか今までの私ならこんなこと絶対にできなかった。土方さんにびくつきながら怒られないよう仕事をするのが精一杯で。土方さんのことを見ているようででも実は何も見えていなかった。
私の叫びに土方さんが立ち止まりこちらを向いた。驚いているのか少し間抜けな表情だ。今の今まで私は彼のこんな表情知らなかった。
「私、定時で帰りませんから!」
「は?」
「残業!係長一人で残るつもりでしょう?」
オフィスで何叫んでんだ、と言いたそうな土方さんに私は迷わず続ける。
「"部下も上司も関係ない。仕事はチームでするもんだ"ですよね?」
昔、土方さんから教えてもらったことのひとつ。聞いたときは"あんたそんなこと言ってるけど日頃、部下に仕事押し付けまくってるだろうが!"とインチキ臭く聞こえたけど、今ならその教えが分かる。そしてその教えを守るのも今だ。やっと社会人にも慣れて仕事も少しは出来るようになったんだ。もっと土方さんのサポートがしたい、力になりたい。
「‥勝手にしろ」
自分が教えたことを今さら恥ずかしくなったのか、土方さんはいつもの無愛想な表情でそう言うとそそくさと廊下の先に消えた。それでも彼の背中はさっきみたいに小さくは感じなかった。
土方さんみたいな人こそ、誰よりも会社を愛して私たちを信頼してる。それが上手く伝えられないだけで。
叫んだことでスッキリした軽い体をくるっと反対側に向けて給湯室へ戻る。ちょうどお茶が出来上がった頃だろう。
来た道を戻る私の後ろ姿を、土方さんが振り返り見ていたことを私は知らない。もちろん、どんな表情で見ていたのかも。