神威
「春雨?私はマロニーちゃんの方が好き」
1年前、俺の自己紹介にこう答えた少女がいた。名前も知らないその少女について俺が知っているのは江戸の甘味処で働いているということだけ。
あの日、江戸の町を散策していてたまたま入った店でその少女と出会った。橙色の着物がよく似合っていて、いらっしゃいませと笑顔で接客してくれた。
その笑顔がとても新鮮だった。日頃、むさ苦しくて汚い天人ばかりしか見ていないからかもしれないけど。素直に、ああ可愛いと思った。まだ何にも染まっていないような無垢な笑み。
ただ‥強そうには見えなくて、でもだから殺そうとは思わなくて。そう思った自分に驚いた。
「きみ、春雨って知ってる?」
俺は看板メニューだという団子を頬張りながら少女に話しかけた。俺が宇宙海賊だって分かったら怖がるかな、その笑顔は消えるのかな。彼女をじっと見て答えを待っていると冒頭の台詞を口にしたのだ。誰が鍋のお供?
自分の天然発言には気づかず、呑気に俺のグラスに水を注いで他の席へ行ってしまった少女。あのあとしばらく店にいたけれど忙しかったのか、少女と話すことはなかった。
それから1年、俺はまた地球へやってきた。今回の滞在は短期間だから、本来は外出は控えるよう言われていたけれど俺はそんなのお構いなしに町へ出た。だってせっかく来れたんだもの、会いに行きたいじゃないか。
店の名前は覚えていた。でも場所や行き方が分からなくて俺はただ歩き続けた。
「‥あーりゃりゃ」
その店にたどり着いたとき、すでに店は閉まっていた。灯りの消えた看板が夜空と同化している。
「ふぅ」
たどり着いた現実にだんだんと心が冷静になっていった。ここへ来れば当たり前にあの子に会えると思っていたから、こんなこと考えていなかった。
ガラガラ、
だから閉まっていた扉が急に開くなんて考えていなかった。真っ暗な店内から出てきた人、でも暗くてよく見えない。
「‥どう、されました?」
だから考えてなかったんだってば、
「‥‥(あのときの、)」
会いたかったあの子が出てくるなんて。前会ったときとは違って髪を下ろしていて、着物も深緑色で雰囲気が大人っぽくなっていた。
「あの、すみません。今日はもう閉店なんです」
彼女は俺を覚えていなかった。俺はちゃんと覚えているのに。彼女は俺を見て客だと思ったらしい、頭をペコリと下げて外へ出ると扉の鍵を閉めた。
まぁ、毎日いろんな客相手にしてたらいちいち覚えてないかな。俺は他の天人とは違って人間たちと容姿は変わらないし。あの日だってマロニーちゃんしか言ってなかったし。仕方ないのに、残念がっている自分がいる、もしかしたら覚えているかなって期待していた自分がいたことにここで気づいた。
「‥あの、これどうぞ」
店の前で立ち尽くす俺に少女が気を利かせてくれたのか、持っていた紙袋を渡してきた。
「お店の残り物なんですけど、チョコ‥よかったら」
そう言ってニッコリ笑った彼女。俺はきみに会いに来ただけなのに。覚えてくれてなかったのは残念だけど会えたからそれだけでじゅうぶんだって思ったのに、
「また笑ってくれたね」
「え」
その笑顔、また見たいと思ってたんだ。1年前と変わらない‥いや1年前よりずっと良い。だって俺の心臓がうるさく鳴いてるから、こんなの初めてだよ。名前も性格も、俺の中で1番大事な‥"強いか"も知らないのにね。
「チョコ、ありがとう。でも俺はきみに会いに来たんだ」
「え‥私、ですか?」
「そう。でも俺のこと覚えてないみたいだね」
「‥‥すいません」
彼女は一度会ったことがあるということに驚いていたあと、申し訳なさそうに頭を下げた。
「俺、神威って言うんだ。きみは?」
「ちよこです、」
「ちよこ、良い名前だね」
「へへ、ありがとうございます」
嬉しかったのか手を口に当てて喜ぶ少女。
「ちよこちゃん、春雨って知ってる?」
1年前と同じ質問を、聞いてみた。もうお互い自己紹介をしたわけだから今さら良いんだけど、一応。彼女はまた1年前と同じ答えを返すだろうか?
「‥‥あ、思い出しました」
「え、ホント?」
だがしかし、彼女は覚えていた。俺の質問にハッ!と目を見開いて二回ほど頷いた。春雨で思い出したのか、まぁいきなりあんな質問するのは珍しいから記憶の片隅にでも残ってたのかな。
「私、マロニーちゃん派です」
「うん。知ってるよ」
「かむい、さんはどっちですか」
「‥‥‥」
どうやら1年経っても春雨が宇宙海賊だと気づいていないらしい。彼女の心からのニッコリがボケていないことを証明している。やっぱり面白いな、この子。
「俺も、マロニーちゃん派かな。でもCMの中村○緒はあんまり」
「えぇーあの人すごく面白いのに」
ちよこちゃんが頬を膨らませてきた。笑顔とは違うその表情もなかなか良い。もっと見てみたいなぁ、この子の表情。
「ねぇちよこちゃん」
「はい」
「俺のこと、次は忘れないでね」
「え、あ‥はい」
俺が差し出したその手にふんわり重なる彼女の手は思ったよりあったかくて。
「次会ったときは、鍋でもしようよ」
「いいですよ、マロニーちゃん忘れないでくださいね」
忘れないよ、次がいつになるかまだ分からないけど。また会いに来るから。
「じゃあ、また。チョコありがとう」
夜の兎が笑うのは、(その笑顔に一歩近づいたから)