世界よ回れ、二人だけの今を
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お母さんはいつもの病室ではなく、集中治療室というたくさんの機械に囲まれた真っ白な病室で眠っていた。家族でさえも入室は許可されないらしく、大きな窓からお母さんの様子を見守るしかできることはなくて。ベッドで静かに眠るお母さんの姿に現実味が沸かなくて私はどんな感情にも当てはまらない気持ちで立ち尽くしていた。今、私は不安とか恐怖とか全て越えた先にいるような、とてつもなく冷たい世界にいるような気がした。


「容態は安定しましたが、油断ができない状況です。娘さんですよね、それ相応の覚悟はしておいてください」


カルテ片手に淡々と用件を伝える医師に、私は頷くことさえできずにお母さんを眺め続けた。それが医師の仕事だから仕方ないのに、今は何も言わないでほしかった。表情までは見えない距離がもどかしい、どうして家族なのに、お母さんが苦しんでるのに寄り添ってあげられないんだろう。あの手を握ってあげたい、お母さんって呼んであげたい。


「‥ゆ、みちゃん」


のり子さんの涙声は無機質な壁に吸い込まれて、自分達の無力さが滲み出る。私は感情を出さないよう圧し殺した。


泣かない、悲しまない。お母さんは助かる、こんな簡単に死なない。お弁当屋やのり子さんを、私を残して死ぬわけない。そう言い聞かせて自分を保った。今の私はそれくらいしか感情に蓋をする方法を知らなかった。


「‥のり子さん、何か飲み物買ってくるね」


病院に来て数時間が経った頃、項垂れるのり子さんに声をかけて私は一般病棟へと向かった。少し夜風に当たりたいような、この非現実的な場所から離れたい気分だった。もう外は暗く診療時間外なので当たり前に暗く静かな廊下を早足で進む。しばらく歩いた先の待合室に見覚えのある後ろ姿が見えた。


「沖田、」


誰もいない、自動販売機と薄暗い証明の待合室で沖田は座っていた。自分の声は大きくないはずなのに声が妙に通って驚く。沖田はゆっくりこちらを振り向いた。私を見て一瞬ピクリと眉が動いた。沖田、もしかしてずっとここにいてくれたのか。


「‥おふくろさんは」


久々に聞いた感じがする沖田の声は優しくて、口調もゆっくりだった。急に彼が大人に見えて、その声に落ち着いている自分がいることにも気づいた。数時間ずっとのり子さんの涙声を聞いていたから沖田の声がすんなりと心に聞こえたのかもしれない。


「大丈夫、安定したって」


さっき医師に言われたこと全ては言えなかった。もうすぐ死んでしまうかもしれないなんて私が信じていないのに、他人に言えるわけない。沖田に言ったその言葉は自分に言い聞かせる言葉でもあった。久しぶりに口元を緩めてみせる。


「お前‥ぶっさいくだな」


沖田はため息混じりにそう言うと静かに立ち上がって私の方へゆっくり近づいきた。私は沖田の言葉の意味が分からなくて眉をしかめた。ぶ、ぶさいくって言った?この状況で?


「そんなぶっさいくな顔して大丈夫なんて、俺が信じると思ったかィ」


「え‥」


私のもとへ沖田のブーツの音と彼の呆れたような表情が近づいて、沖田の言葉に私はさっきよりももっとわけが分からなくなった。そして、


「おっ、おきた‥!?」


目の前に来た沖田の腕がこちらに伸びてきて私の後頭部をそっとつかみ、そのまま彼の胸に抱き寄せられたと分かったとき私の思考は完全に停止した。


「‥‥っ、」


視界は真っ暗、顔に当たる部分から自分のものじゃない心臓の音が聞こえて、あたたかい温度が全身を包む。驚きで体は動かない。それほど沖田の腕の力は強くないはずなのに、苦しくて仕方ない。


私、沖田に抱き締められて‥る?


「‥は、はなして、よ‥なに、してんの」


お母さんのことで冷えきった体と心を侵略する優しい温もりが切なくて、苦しくて。泣かないと決めた決意が揺れているのが怖い、沖田の胸の中で発した自分の声は震えていた。


「‥離すか。そのぶっさいくな面が壊れるまでこうしてやる」


沖田は私の耳元で強い口調でそう言ったあと、後頭部をおさえてない方の腕を私の腰に回した。そして自分の方に引き寄せるように強く抱き締めた。私は抵抗できないまま。さっきよりも密着した体、とたんに息ができなくなって目頭が熱くなる。


あぁ、どうして‥


「お前のそんな面見たくねェ。いつもみたいに沖田死ねってぎゃーぎゃー騒げ、何で平気な振りすんでィ‥泣きたいなら泣け、"お母さん死なないで"って叫んでみろよ」


どうして、沖田は私の求める温もりを持っているの。


「っく‥む、り‥っ」


どうして沖田の声は私の心を決壊させてしまうの、あれほど我慢した涙を引き寄せるの。


「‥俺ァな、苦しんでるお前の手ェ引っ張って立ち上がらせるような器用なことはできねぇ。でも‥お前がちゃんと泣けるまで、本当の気持ちで笑えるまで一緒に地べた這いつくばってでもかがんでやることはできる」


あぁ、もう本当に‥


「だからそんな脆い強がりなんか捨てろ。一人で抱えこもうとか出来ねぇことすんじゃねぇ、馬鹿女」


どうして沖田はこんなにあったかいの。馬鹿はそっちだよ、沖田の馬鹿。


「うっ、っう‥っく」


恐る恐る、震える手で沖田の分厚い背中をつかんだ。固い隊服の生地が手のひらに伝わって、いつのまにか流れた涙が、私の泣き声が静かな病院に響く。沖田は何も言わずに私を抱き締め続けた。


「藤堂、」


時折、沖田が耳元で私の名前を呼ぶ度に涙がじんわり溢れた。それは今まで呼ばれた中で一番近くて、一番優しくて、一番温かいものだった。頭を撫でる左手が大きくて、背中を包む右手は温かくて。私の知らない沖田はこんなにも愛に溢れていた。


私の知らないうちに、沖田の優しさは私を果てしない暗闇から救い出してくれていた。沖田は私を私らしくさせてくれる魔法の言葉を知っていた。


いつかの日まで知らなかった沖田の匂いを懐かしいと感じながら何度も吸い込む。


「うっ、っく‥ひっ、く‥ん」


ねぇ、沖田。次に私が顔をあげたときにはまた不細工だと馬鹿だと笑えばいい。それで私がぐちゃぐちゃの泣き顔でうるさい馬鹿沖田って言い返してやるから。


だから、


「う‥ひっ、く‥んっ」


だからそれまでは沖田の優しさに浸らせて。沖田らしくない沖田で私を抱き締めていて。


言葉も何もいらないから、そばにいて。


あったかいその胸に自分を預けながら、そう思った。


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