おおむね想像していた通り、そんな私の心配はほとんど杞憂に終わった。

お兄さんは前ほど店に来なくなった。
でも一度可愛い女の子と二人で来店した。明らかに年の差があって、一緒にいた子は確実に『お姉さん』ではなく『女の子』。後輩か何かだと思う。その子はお兄さんを太刀川さんと呼んでいた。
そのぐらい何じゃないことだと言われても仕方がない。呼び方一つでモヤモヤしてしまう私はその子みたいに可愛くはなく、望ちゃんみたいに美人でもなく、もはや悩むことすらおこがましいのだと、お兄さん自身が、思い上がりの私に親切に教えてくれたのだと考えている。

(バカみたい)

悩んでいるのが私だけだとでも思っていたんだろうか。
むしろ私は、お兄さんに好かれているとでも思っていたんだろうか。
だとしたら間抜け極まりない話だ。
途端に自分がぎゅうっと縮小されて小さく見える。お兄さんさえ良ければ土下座したいほど、恥ずかしくなった。

(バカみたい。ホントに)

誰か私を思い切り殴ってくれないかなあ―――と、思いながら、朝焼けの名残に目を細めた。


「いらっしゃいませー」

ブルーノの声に私も続いて、来店したお客さんに目をやる。
どきりと一瞬心臓が跳ねる。落ち着ける。
久しぶりに見た。お兄さんだ。お兄さんと、ああ、この間の女の子だ。もしかしたら恋人同士なのかも。
いや、そんなこと私に関係ないのだ。私が営業スマイルを作って二人の前に出ると、お兄さんが顔を上げた。目を極力合わせないようにしながら、「いらっしゃいませ、お二人様ですね」と席に案内する。
メニューとお冷とおしぼりを出してその場を去る。お兄さんがチラリと私の様子を伺った気がしたけど、気のせいということにして、あくまでカフェスタッフを貫く。

「すみませーん」
「はあい」

女の子に呼ばれる。にこにこしていて、声も可愛い子。妹に欲しいなと思わせるような子だ。

「えーと、りんごのシブーストひとつ」
「はい。セットの紅茶をお選びください」
「んー。ん、アールグレイかなぁ」
「アールグレイですね。アイスとホットどちらになさいますか?」
「アイスでお願いしまーす。あと、ティーセット……オレンジセパレートティーで」
「お飲物は先にお持ちしますか?」
「そうしてくださいー」
「かしこまりました」

ティーセットのほうはお兄さんの注文だろう。多分、オレンジが好きなんだものね。
女の子はうきうきした目でメニューを眺めている。わかるわかる、写真だけでテンション上がるよね。心の中で話しかける。微笑ましい。お兄さんはスマートフォンをいじっていて、言葉は発さなかった。纏う空気が、以前と違う、張り詰めたものになっている。それすら気のせいだと打ち消してしまう。可愛い女の子に肯定的になってしまうのも、不自然すぎる。
ティーセットはスコーン3つにクロテッドクリームとブルーベリージャムがついているのだけど、オレンジセパレートティーでいいのかな。まあ、お兄さんが食べたいのなら、それでいい。
思っていた以上には私が私で、ちょっと安心した。

「オーダー入りまーす。シブースト、アールグレイのセットと、ティーセットオレンジセパレートです」

あーい、とか、ういーす、とか、自由な返事が元気よく返ってくる。キッチンはなぜか男所帯だ。マスターにそっちのケはないはず。
誰もいないカウンターでは、ブルーノが豆を挽いていた。目に見えて嬉しそうで、窓際の席に例の彼女がいるのも確認できた。ブルーノの手つきは弾んでいる。
相手のことを想うって、こういうことなのだ。

私はまず、形が気に入っている、赤いヤカンにお湯を沸かす。
沸騰する間にオレンジを半分に切って、飾り用のくし形切りに。残りのオレンジはスクイザーで果汁を搾る。今の非力な私には労力がいる仕事だ。
紅茶の茶葉をポットに入れて、少し冷ました沸騰済みのお湯を注いでだいたい4分。ティーストレーナーで漉しながら、紅茶をサーバーに一気に移す。続いて氷がいっぱい入った冷却用の容器に移して急冷。それが冷えたところで、氷を入れたグラスに注ぐ。これでアールグレイのアイスティーは出来上がり。当初に比べたら慌てることもなくなって、ちょっとしたプロになった気分だ。
オレンジセパレートティーに戻る。30ccくらいのシュガーシロップと、それと同じくらいの果汁をグラスに入れてマドラーでよくかき混ぜる。混ぜる作業は子どもの頃から好きだった。そこに氷を。カランカランと涼しい音。さっきのアイスティーをゆっくりゆっくり、慎重に静かに注いで、くし形切りにしたオレンジとミントを飾りに。
私にしては上出来。

二つのグラスとミルクピッチャーを載せて運ぶ。オレンジセパレートティーは、うまくできると、見た目がとっても綺麗だ。お兄さんの前に置いたそれに、女の子が目をキラキラさせている。
失礼しますと踵を返そうとしたとき、背筋がヒヤリとした。
反射的に横目で伺うと、お兄さんの射すような視線。少しも読めない目が私を見ていた。
冷や汗が首を伝う。そのままそこにいると、絡め取られてしまうような視線。客の醸し出す、狂気に似た何かを感じとったしがない店員は、つまずかないようにカウンターに入るのが精一杯だった。

(……なに?)

加えて私の判断は間違っていたとでも、言いたいのだろうか。
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