太刀川さんのこと。
太刀川さんはボーダー隊員なんだって。
しかもA級トップチームの隊長。隊員の中では一番強いってことだ。
それを聞いてすぐに、なんだか、住む世界がまるで違うと感じた。直感的なものだと思う。
いや、違うことはない。太刀川さんは別世界から来るあの怪物みたいなネイバーという、……みたいなではなく、怪物を倒しているだけで、そう、それだけだから、それなら望ちゃんだって同じだし。違うことは、ないんだが。
顔を覗き込んでくるブルーノの頭に、とりあえず右手の指先を揃えてチョップを落とす。割と本気で痛がった。私の右手もそれなりのダメージを食らった。

「あれーサボりくんは減給されたいのかぁ」
「うわっそれは勘弁!おれ今月厳しいんすよ」
「でもサボる余裕はあるんだね」
「すみません戻りますー!じゃあね、なつみちゃん」

慌ただしく食器を下げるブルーノ。私のもとには半分くらいになったお冷のガラスコップだけが残る。減給されたいのかぁって言ったマスターの声音がなんだかとても楽しそうだったのには触れないでおこう。
本当に知らないの?と思わせぶりな言い方をするから、あんなやつには引っかかるな、みたいな、そういうのかと思っちゃったじゃないか。ブルーノのあんぽんたん。言葉足らず。アンタあだ名が外人みたいなだけであって日本人歴イコール年齢だろうが。
ただブルーノは私に確実な言い訳をくれた。なんとも優秀な制御装置を設けてくれた。そんなつもりはなかったのかもしれないけれど、少なくとも私にとっては間違いなく、それ以外の何物でもない。さっきブルーノが私に教えたことを脳内で反芻するだけで、脳髄の奥底まで冷えて、心臓に薄い膜が張り付くような、けして心地よくはない感覚が私を包む。
ああ、これで私は大丈夫だ。何があったってどうにかなる、なんて何がどう大丈夫なんだか、嬉しいことじゃないくせに。

おかしな話だと思った。
単なるお客さんと店員なのに互いの名前を教えあったり、それだけ済ませてあとは何も話さなかったり、とにかくおかしな話、おかしな距離感だと思った。
ブルーノとあの女の子みたいなのは単なるお客さんと店員とは言えない、あれは淡い恋と呼ぶにふさわしいものを抱えているから単なるで済ませられない、だったら私たちは?
そしてこんなふうに考えてしまうこと自体どうかしているんだと気づくのがいちいち遅い。うん、私が一番おかしい。
太刀川さんは机に広げた書類に突っ伏して寝ているようだった。会計を済ませて、なるべくベルが鳴らないように、今までにないくらい慎重にドアを押して外へ出た。ふうっと息を吐く。太刀川さんと同じ空間にいたら、なんだかとても息苦しい。


太刀川さんなんて呼ぶのはどうもむずがゆくていけない。お兄さんはお兄さんだ。太刀川さんなんて親しげに呼ぶのはどうもボタンを掛け違えたような違和感があっていけない。お兄さんはお客さんだから。そう、違和感。
名前(というか呼び方)一つでこんなにも悩む日が来ようとは。
晩ご飯の食器を下げようと立ち上がったところで、テーブルの上の携帯が震えた。とりあえず食器をシンクに置いた。私に何かしらのコンタクトを取ったのは誰かを確認する。相手によってはすぐには返信しないし、むしろ返信を求めていない、携帯会社からのメールって可能性もある。

『なつみちゃん!ねえ聞いて聞いて!!おれ今日ね!!知りたい!?知りたいっしょ!?ねえ言わせて!!』

お前かブルーノ。
画面越しでもやかましいテンションに既読無視してやったら勝手に話が進んだ。こいつは自分が話したいだけだな。女子か。「聞いてる?」とか言ってこないあたり、どうでもいいことを延々と話す女子よりはマシ……なんだろうか。
いちいち小分けにして送ってくるから通知がピコン、ピコンとうるさくて面倒くさい。ブルーノ目当てでカフェに通うあの女の子が今日も来てくれたとか、なんとか。それから始まって、わざわざ連絡してくるぐらいだから、よっぽど嬉しいことがあったんだろう。今は読む気分になれない。

『おれね、その子の名前呼ぶ時にさ』
『多分すっごいだだ漏れ』
『自分でもわかるんだよ』
『バレるかな』
『バレてるよね』
『なつみちゃんもわかってるもんね』
『○○さん!(はあと)みたいな』
『wwww予想以上にきしょいwww』
『で今日フォンダンショコラ頼んでたからね』
『ストロベリーソースでついハート描いちゃった。』
『)^o^(』
『おれ超キモいね??』

一人で盛り上がっている。文面が若々しすぎて心が痛い。とりあえず「そうだね」と返信しておいた。同意されるのもそれはそれで傷つく!って言われても、どうすりゃいいの。
ハート、ね。
そんなふうに素直になれてしまうのが、少しだけ羨ましいと、また、直感的に思った。いやいや何がどう羨ましいのと、頭を振ってその考えを追い出す。

「……たちかわ、さん」

静かな部屋に反響するような錯覚。無駄に恥ずかしくなった。ハートマークらしきものは確認できない。
そして、するりと口から溢れたのは、

「…………お兄さん」

明らかに声色が変わった。自分でもわかるってこういうことかと感じた。
ハートがついていたかどうかはわからないけれど、以前のような、すっきりした関係を否が応でも思い出させる。久しぶりというわけでもないのに、それはやたら舌に馴染んで残った。やっぱり私たちにはあの距離感が一番お似合いだと思った。
せっかく教えてもらったのに、太刀川さんと呼ぶ許可ももらったのに、勿体無い気もするけれど。
変な方向にこじれないためならば、このぐらいのことは、簡単にできる。
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