私の隣の席は空いたまま。それでもさっきまで、タチカワさんが立っていた場所。
私ばっかり座っているのは少し申し訳ない気がしたし、背の高い人を見上げるのは首が疲れた。そんなどうでもいいことを気にするくらい、私はあのとき、ろくな人間じゃなかったと思う。全く、私は、つくづく本番に弱い。


「あ、あの、タチカワって、どう書くんですか?」

気が動転して、おかしなことを口走ってしまった。自分でも、それがどうしたっていうんだ、って感じだ。
でもタチカワさんは左の手のひらに右手の人差し指で何かを書くような仕草をしてから、「えーと、太いに刀に川です」と親切に教えてくれた。まさか自分の名前を確認していたんだろうか。うわあ、かわいい、と思った。

「ええと、秦さんは?」
「あ、私は」

聞かれて、私は手近な紙ナプキンに名前を書く。ただでさえボールペンの先が引っかかる上に焦って上手く書けない。
ついフルネームで書いてしまった。いつものくせで。
表面に小さな凹凸がある白い紙ナプキンに、秦なつみと、いつもより少しへたくそな字で、所在なさげにさまよっている。タチカワさん改め太刀川さんは、受け取ったそれをしっかりと、何度も見る。なんだか私を表す文字をそんなに見られると、私自身を見られているようで、私自身も所在なさげにするしかなかった。

「、!」

太刀川さんが突然、私の名前を口にした。
秦、なつみ、と、ゆっくり。確かめるような感じで。
何度もいろんな人に呼ばれた自分の名前が、こんなに素敵なものに感じたのは初めてだった。太刀川さんの言葉はまるで何か変な効力がある気がする。

「合ってます?」
「え?あ、あ、合ってます!」
「ありがとう、ございます」
「ど、どうも、こちらこそ……」

互いに軽く頭を下げて、固まった。
…な、何をしているのだろう。ていうか、ここからどうすれば。
淑やかな老婦人が、私たちが二人して睨めっこしている床を一瞥してから、何かあるのかしらと不思議そうにお会計をしにレジへ向かっていく。その老婦人がドアを押して出て行く時に鳴った軽やかなベルの音で、私たちはようやく顔を上げた。

「……じゃあ」
「は、はい」

太刀川さんは苦笑して、恐らくお気に入りなのであろう、カウンター横のレジ背後奥、つまり今の私からは見えない位置にある席。に、くたびれたスニーカーの底で鈍く床を擦りながら歩いていった。
なんか、さっきの笑い方好きかも。
上がる口角を隠すように、すっかり冷めたチョコレートを飲み干す。こんなに甘かったっけ。冷めると余計に甘く感じるのかもしれない。
その後ほどなくして運ばれてきたひよこ豆のカレープレートは、相変わらず美味しかったけれど、朝食を抜いた時とは思えないほどお腹いっぱいになった。

「ふっふっなつみちゃ〜ん」
「あのね、そのニヤけ面正直気持ち悪い」
「辛辣」

来やがったな下世話モードブルーノ。おい、どうしてカウンターを挟んで私の正面に座るんだ。そんなオーラをものともしない。食器を下げにきたかと思えばこれである。出されたお冷を一口含むと、更に頭が冷えて冷静になった。私、浮かれすぎだったかなと、心臓がヒュッと寒くなる。

「おれさぁ〜さっきあのお兄さんの注文取りに行ったんだけどぉ」
「その話し方は心底むかつく」
「ごめんなさい」
「うん」
「で、取りに行ったんだけど、そのテーブルにさ、秦なつみって書いてある紙が」
「……そ、それがどうした」
「……いや、どうしたも何も」

何言ってんのこの人はという目で見られる。まさかこいつにこんな目で見られる日が来ようとは。

「その件は一旦置いといて、……なつみちゃん、もしかしてホントに……知らない感じ?」
「? 何を」
「何って」

ブルーノが言いにくそうに頭を掻く。

「あのお兄さん、……太刀川さんのこと」
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