「ま、それはいいわね。なんだってあんたはこんなにタチカワばっかり書いてたの?」
「つ、突っ込まないでって言ったのに」
「改名でもする気?」
「いやいやいやそんなんじゃないの、ごちそうさまでした……」
「ん?ああ、はいはい」

空になった皿を当たり前のように持って流しに置いてくれる望ちゃんには頭が上がらない。そしてつくづく、私はだめだなあと思った。
これ以上私にお金をかけなくても云々と尤もらしいことを親に言って大学へ行かずに。望ちゃんのように大層な仕事をしているわけでもなく。女として一人の人間として大きな魅力があるわけでもなく。子どもの頃の私は、今の自分のような、突出したところなんて何一つない、こんな姿に憧れていたわけではなく。
もう遅いのに、望ちゃんは、「今日は一人になりたいんじゃないの?ごめんね、もう帰るわね」と言って、帰った。当たっていた。申し訳なかった。
いろいろ話してくれたけれど、半分くらいは霧散してしまったと思う。心の底から申し訳なかった。いっそ思い切り罵倒してもらいたかった。


やっぱり世界は残酷だ。幼い私は、なりたいものにはなれるのだと漠然と思っていたというか、そう信じて疑わなかったというか、当たり前だと認識していたというか。それが大間違いだったのに気づいてから、夢から覚めたように、いろんなことに対して投げやりになってしまった。世界の九割ほどは何てことはない凡人なのだ、自分もその一人なのだと思うと、私一人ぐらい、とか。そしてやっぱりそんなことを考える自分が嫌いになった。
昔から、今日は朝から、ずっとこうだ。

「おや、いらっしゃい」
「……こんにちは」

客としてカフェに訪れてカウンターに腰掛けた私に、マスターは一瞬珍しそうな目をして、そこから笑った。お昼時を少し過ぎて、私以外に、お客さんはほとんどいなかった。

「外、寒くなかったかい」
「少し」
「ちょっと待っててね」

しばらくすると、メニューの中では少々お高めだけど人気のホットドリンクがテーブルに置かれた。ホットチョコレートにクリームを浮かべて、その上に薄く削ったチョコを載せた、女の人に人気の、が、トールサイズで。
甘党の私はこれがとてもお気に入りだった。思わずマスターを見る。

「なんだかよくわからないけど、今日は徒歩で来てくれたんでしょう?50円オマケするから、いつもの電車賃だと思って」
「あ……ありがとうございます」
「お腹空いたでしょ。何にする」
「あ、じゃあ、……ひよこ豆のカレープレート」
「かしこまりました」

50円引きのホットチョコレートを一口飲む。甘みがぶわりと口と鼻に抜けた。
どうしてマスターは私がやりきれない気持ちになっていることを察してくれたのだろう。どうして朝から何も食べていないことがわかったんだろう。どうしていつもは電車で来る距離を徒歩で来たことに気づいたんだろう。私なんかよりずっと長い時間、いろんな人と接してきた経験が成せる技なんだろうか。
ベルが鳴って、お客さんが入ってきた。つい癖で、いらっしゃいませという言葉が口をついて出そうになる。喉元まで出かかったそれをチョコレートで押し戻した。

「いらっしゃいませー空いてるお席にどうぞー。すぐお冷とメニューお持ちしますねー」

カウンターの向こう側にブルーノがひょいと出てきた。この間延びした声が案外、カフェの雰囲気を明るくとっつきやすくしている。
ブルーノはカウンター席に座っている私に気づかず、手早くお冷とメニューとおしぼりを新規のお客さんのテーブルに持っていった。そこから戻ってきて、ようやく私に気づく。

「なつみちゃん」
「うん」
「今日はお客さん?」
「です」

目の前の男は愛想よくいらっしゃいませと笑う。

「なつみちゃんも暇してんだ」
「まあね」
「てかそれ、そんな甘いもん、よくトールで」
「うん」
「……素っ気ないなあ。どうかしたの」

なんでもないから仕事にお戻りと手を前に振ると、ブルーノは首を捻ってから、まあごゆっくりーと言ってキッチンに引っ込んだ。お喋り好きな私が話に乗らないのを不思議に思ったらしいが、乗りようもないし聞かれたところで説明もできそうにないし、深く詮索してくれなくて安心した次第である。
今日も店内に流れるジャズに紛れて、包丁がまな板を叩く音、フライパンの上で何かが踊って油が跳ねる音、ホイッパーがボウルの内側とぶつかる音、お客さんがコーヒーカップをソーサーに置く音、雑誌や新聞を捲る音、誰かが何かを飲んだ後にホッと息を吐く音、フォークを皿のふちに置く音、静かなはずの空間はたくさんの音で溢れている。その小さな喧騒が耳に心地良かった。

「あれ」

あ、誰かが首を傾げるような声。
なにか不都合でもあったのだろうか。カップを口につけながら店内をぐるりと見渡す。左から、右に目線を向けたところで、途端にチョコレートが焼け付く甘さになった。吹き出すかと思った。慌ててカップをソーサーに置く。

「……え、あ」
「秦さん……です、よね?」

確かに私の苗字は秦だが、もしかしたらこの店内にも同じ苗字の人がいるかもしれない。でも、この人は、……お兄さんは、私を見ている……ような。

「わ、私、ですか?」
「……あ、もしかして覚えられてない感じ?」
「!!い、いえ、違います」

覚えられてない感じ?と言ったお兄さんは紛れもなくタチカワという名前を教えてくれたお兄さんで、お兄さんが指す秦さんも私だ。覚えていないはずがあるものか。これからもお店で顔を合わせることになるだろうに、おかしな印象を与えてしまいたくない。
咄嗟に手を振って否定した私は余程、お兄さんとのプラスの方向に伸びている妙な距離感の関係を壊したくないらしかった。……ああ、いや、壊そうとしている。プラスの方向に、あと少しだけという欲が、出ている。

「……タチカワ、さん」

タチカワさんの顔がパッと明るくなった気がした。
そのあとは早かった。情熱的な人たちから見れば大変もどかしい亀の歩みだろうが、私たちは、互いの名前をどう書くか、そんなところまで聞くことができた。だって今日の私は店員じゃなかった。お兄さんと同じ、この店のお客だった。そのことが知らぬ間に、とても私を安心させていたのである。
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